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【ファミリー~Jリーガーと家族 ⑩】 浦和レッズ 梅崎司選手(後編)

『GIANT KILLING extra』の大好評インタビューシリーズ、Jリーガーが語る家族の物語《ファミリー》。いつも応援している選手たちの、普段見せない顔に、ぜひ出会ってください。

10人目の登場は、浦和レッズ・梅崎司選手です。前編はこちら

これまでに登場した選手たち

  • 【1人目】 川崎・小林悠選手(前編後編
  • 【2人目】 広島・森﨑和幸選手(前編後編
  • 【3人目】 浦和・柏木陽介選手(前編後編
  • 【4人目】 鹿島・土居聖真選手(前編後編
  • 【5人目】 湘南・菊池大介選手(前編後編
  • 【6人目】 柏・中川寛斗選手(前編後編
  • 【7人目】 川崎・谷口彰悟選手(前編後編
  • 【8人目】 鹿島・永木亮太選手(前編後編
  • 【9人目】 広島・森﨑浩司選手(前編後編



父親を見返してやる。抱いた反骨心が成長の源になった

浦和レッズでプレーする梅崎うめさきつかさは力強く、それでいて優しい目でこちらに語りかけた。

「物心ついたころから、父親がオカンに怒鳴っている光景を見ていたので、僕にとってサッカーは逃げ場だったところもありました……唯一、好きなことに没頭できる瞬間というか」

梅崎が中学生になってもなお、父親からはサッカーを続けることを反対されていたという。

「中学3年生になって進路を考えるようになったときも、サッカーの強豪校ではなく、進学校に行けと言われていました。でもオカンは、プロにさせようというのではなく、僕の好きなことをやればいい、好きな道を進めばいいと言ってくれましたね」

母・庭子にわこさんは、常に梅崎が「好きなこと」を続けられるように背中を押してくれた。そんな母親が苦しんでいる。見かねた梅崎は中学3年生になったある日、母親にこう告げた。

「お母さん、離婚していいよ。家を出よう」

母親を守らなければ……それは長男としての責任感だったのだろう。4つ離れた弟と3人で家を飛び出した。

「半ば夜逃げ状態でした。もう、家出ですよね」

そう言って、こちらに微笑んでくれるのは彼の優しさである。


「父親が怖いから、オカンと計画を立てて、家を飛び出しました。一時期、僕は学校も休みましたし、しばらく親戚の家を転々としていました。その後、僕は大分トリニータユース(U-18)のセレクションに合格して、父親と離婚したオカンとも離れて暮らすことになった。それこそ父親にはセレクションを受けることも言っていなかったんじゃないですかね。僕には(父親を)ずっと見返してやろう、やってやろう……そういう気持ちがずっとあったんです」

その反骨心こそが、彼から感じられる力強さでもある。

「ただ、そこが僕のまだ幼かったところなんですよね。オカンが離婚を決意したのも、僕が言い出しっぺみたいなところがあるじゃないですか。それで、これから家族3人で生きていこうとしているってときに、僕はトリニータのユースに行きたいって言ってしまう。そこが矛盾しているというか、今思えば、無責任ですよね(笑)」

大分の育成組織に入っても、子どもの頃から夢見ているプロサッカー選手になれる保証はどこにもない。3年後には夢破れている可能性すらある。それでも庭子さんは、息子から「好きなこと」を取り上げなかった。

「しかもトリニータが提携していた高校が私立だったんです。だからユースの費用だけでなく、かなり学費も高かったと思います。それなのに、いつもオカンに電話すると『ちゃんと食べてるの?』って僕のことを気遣ってくれた。(母親が)朝・昼・晩と働いていることも知っていたし、そっちの生活も大変なのに、お小遣いまで送ってくれて。それまでお金のことを考えたことはなかったですけど、親元を離れて初めて、感謝したというか。いつも、電話するたびに親のありがたみを感じました。正直、がんばらなきゃという思いはめっちゃありましたね」

梅崎の言う「めっちゃ」には、ひと言では片づけられない努力がある。そして高校を卒業した彼は、西川にしかわ周作しゅうさくとともに大分の育成組織としては日本人初のプロの選手となった。

「プロになれることをオカンに報告したときは、すごく喜んでくれたと思うんですけど、何て言ってくれたかは覚えてないですね。でも、プレゼントを買ったことは覚えています。確かブランド物のケースでしたね」



このまま自分は終わるのではないか。不安が募り、母親に当たった過去

母親には感謝してもしきれない。だから梅崎が浦和に加入して2年目の2009年、弟が関東の大学に進むのを機に、庭子さんも呼んで3人で一緒に暮らすようになった。それなのに……彼は自分に向けるべき怒りの矛先を母親に向けてしまった。2009年3月に腰痛を患い手術を受けていた梅崎は、同年に右ひざ前十字靱帯じんたいを損傷。その大ケガからようやく復帰した2010年、今度は右膝半月板を痛めて再び戦線を離脱した。

「レッズに加入して3年目。ケガをして試合にも出られない状況に不安が募っていたんです。結果を残せていないことが、すごく怖かったんですよね。このまま自分は終わるんじゃないかって」

度重なるケガは体だけでなく、心をも深く痛めつけた。プレーできないもどかしさと試合に出られない焦り。唯一、き出しの感情をぶつけることができた相手が、母親の庭子さんだった。

「自分でオカンを呼んだくせに、そこに甘えているから、こうなったんだって思い込もうとしていた。とにかく、何かを(ケガした)原因にしたかったんでしょうね。オカンに家事を全部やってもらっているのがダメなんじゃないかって思って、一緒に住んでいるのに、『オレの物に触るな!』って言っていましたから。同じ家で生活しているのに、食事も別、洗濯も別。それこそ、ちょうどウガ(宇賀神うがじん友弥ともや)が寮を出て一人暮らしをしようとしていたから、一緒に部屋を探して、僕も契約する寸前まで行きました。それくらい自分の中では追い込まれていて、何かを変えなきゃって思っていたんです」


立ち直るきっかけは、2011年3月11日に起きた東日本大震災だった。

「あの震災で多くの方が亡くなったし、被災した方たちは今も苦しんでいる。あの震災を経て、自分は生きているだけで、プレーできているだけで、幸せなんだって思えたんです。それからは考え方が変わりました」

心境が変わったのは震災の影響が大きかったというが、すさんだ時期を母親が受け止めてくれたからこそ、そうした思考へと辿たどり着けた。

「確かに嫁さんにも、あんな態度は取れない。今思えば、オカンだからですかね。あっ、嫁さんにも、その年に出会ったんです。僕にとって2011年は、いろいろなことが変わりました」

右膝を二度負傷するケガを乗り越えて人間的にも成長したからこそ、三度目ともいえる左膝を負傷した今は、かつてのように母親に当たることもなければ、妻に当たることもない。リハビリにも前向きに取り組めているのは、やはり守るべきものが増えたからだろう。

「家族が、子どもがいるというのは大きい。精神的にも安定しているし、前みたいに落ちこむこともなくなりました。それにケガをしてから、日々いろいろなことを考えるようになったのも大きいんですよね」

試合の取材に行けば、梅崎はいつもそのときどきの思いや考えを話してくれる。葛藤していることや、成長しようともがいていることが、ひしひしと伝わってくるからこそ、人間味にあふれていて追いかけたくなる。

「結婚してから、どこか自分自身も守りに入っていた時期があったというか。チームのためにどこか空気を読んでしまうところがあったんです。それって指導者としては必要な要素だとは思いますけど、選手としてやっていく中では、空気を読みすぎてしまうのはどうなのかなって。もしかしたら、サポーターも僕のプレーを見ても面白くないんじゃないかなって思ったんです」

それを気づかせてくれたのは、古くからの友人の言葉だった。

「あるとき、『お前が人間的に成長しているのは分かるけど、どこかに落ちない』って友人に言われたんです。その友人は、サッカーについては詳しくないんですけど、いつも『もう少し自分のためにプレーしなよ』って言ってくれるんです。それで自分なりに考えてみたら、人のために、チームのためにという思いが強すぎて、知らず知らずのうちに自分が本来やりたいプレーや目指しているプレースタイルを自分で殺していたなって思ったんです。昔と比べれば、確かにプレーの幅は広がっているかもしれない。でも、その一方で、自分がどこか丸くなってしまっているんじゃないかなって感じたんです」

そして、その友人はこうも付け加えたという。

「きっとさ、そういうことも含めて、お前のお母さんは全部、分かっていると思うよ」

梅崎は思いがけず泣いてしまったという。そのとき思い出したのは、初めてボールをったときのことだった。

「それで僕は思ったんです。オカンが僕の何を一番見たいかと言えば、きっと僕がサッカーしているのを初めて見たときに、大きく見えた感じ……何も考えずに無我夢中にボールを蹴って、自分のやりたいように潑剌はつらつとプレーしている姿だと……。卒業文集に書いたように家を買ってあげることもできましたし、プレゼントもたくさんあげてきた。でも一番の親孝行が何かって考えたら、自分がピッチの上で大きく見えるようなプレーをすることだって思ったんです。友人の言葉を聞き、一番大切なことを忘れていたなって気がつきました」

聞けば、こちらが想像していたとおり、庭子さんは「エネルギッシュな人」だという。

「曲がったことが嫌いで、子どものときも、僕が悪いことをすれば、それがコンビニだろうが、スーパーだろうが、全力で怒られました。人前とか、場所とかは関係なかった。良いことはめるし、悪いことはダメだってはっきりと言う。変に周囲の空気を読もうとしないところは、すごく尊敬できる部分ですね」

そんな庭子さんは最近、梅崎に「お父さんにも試合を見せてあげれば」と言ってきたという。梅崎もまた、かつては憎んでいたであろう父親に対して「感謝している」と言える寛容さがある。

「オヤジがいたから、僕はハングリーになれた。父親と母親、2人がいたから、僕のこうした性格や人間性は形成された。だからこそ、もう一度、ガツガツしているところを、オカンにも、嫁さんにも、子どもたちにも、みんなにも見せたいんですよね」

彼は変わろうとしているのではない。きっと、かつての自分を取り戻そうとしているのだ。それは父親に“鍛えられた”反骨心と母親から受け継いだ自己主張力である。長く険しいリハビリを終え、彼が再びピッチに戻ってきたとき、その姿はきっと、これまで以上に大きく見えるはずだ。 (了)


取材・文=原田大輔(SCエディトリアル)
写真=佐野美樹

梅崎司(うめさき・つかさ)

1987年2月23日、長崎県生まれ。MF。大分トリニータU-18から2005年にトップチーム昇格。2008年に浦和レッズへと移籍した。2009年に右膝前十字靱帯、翌年にも右膝半月板を損傷するも復活を遂げて活躍。2016年8月31日のヴィッセル神戸戦で左膝前十字靱帯を損傷し、現在はリハビリに励んでいる。



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