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【ファミリー~Jリーガーと家族 ⑦】 川崎フロンターレ 谷口彰悟選手(後編)

『GIANT KILLING extra』の新しいインタビューシリーズが始まりました。

Jリーガーが語る、家族の物語《ファミリー》。いつも応援している選手たちの、普段見せない顔に、ぜひ出会ってください。

7人目の登場は、川崎フロンターレ・谷口彰悟選手です。前編はこちら

これまでに登場した選手たち

    • 【1人目】 川崎・小林悠選手(前編後編
    • 【2人目】 広島・森﨑和幸選手(前編後編
    • 【3人目】 浦和・柏木陽介選手(前編後編
    • 【4人目】 鹿島・土居聖真選手(前編後編
    • 【5人目】 湘南・菊池大介選手(前編後編
    • 【6人目】 柏・中川寛斗選手(前編後編



谷口たにぐち彰悟しょうごが故郷・熊本に戻ったのは、震災から1ヵ月がたとうとしていたころだった。試合を終えた彼は急いで飛行機に乗ると、福岡経由で地元を目指した。熊本駅に着いたときには夜になっていたが、それでも慣れ親しんだ風景が様変わりしていることだけは分かった。

「実家はもう住めない状況だったんですけど、両親は、たまたま近所のマンションを借りることができて引っ越しが終わったばかりのころでした。熊本に着いて、とりあえずその新居に行き、そこでやっと、直接、両親の顔を見ることができました」

そこで谷口は、束の間の家族団欒だんらんを過ごすと、翌朝には川崎フロンターレから支援物資を送った母校へと挨拶に行くため、早々に家を出た。

「着いた日は夜だったので気づかなかったんですけど、屋根がブルーシートで覆われていたり、いたるところで壁が壊れていたりして、全然、自分が知っている町並みとは違いましたね。途中で実家にも寄ったんですけど、家の中を見たら、もう、ぐちゃぐちゃで。それだけですごい地震だったことは分かりましたし、命があるだけで良かったんだなって思いました。そういう状況なのに両親をはじめ家族は『自分たちのことは大丈夫だから、お前はサッカーをがんばれ』って言ってくれる。やっぱり親の偉大さを感じましたよね」

そう言って優しく微笑んだ谷口は、震災によって変わり果ててしまった熊本での懐かしい記憶を振り返ってくれた。


勝つことが当たり前の状況から一変

谷口がサッカーを始めたのは、通っていた幼稚園がきっかけだった。

「兄弟全員が通っていたのが、近所にあった第二さくら体育幼稚園で、その名の通り跳び箱とかトランポリンとか体操と、運動ばっかりをやるような幼稚園でした。そこの先生がサッカー好きで、幼稚園でチームを作って大会に出たりしていた。兄もそこでサッカーをしていたので、僕も幼稚園に入ると、自然とサッカーをやるようになりました」

すぐに谷口はサッカーのとりこになる。幼稚園に少し早めに行くと、いつもサッカーボールを蹴って遊んでいた。ただ、小学校では高学年にならないとクラブ活動に入れなかったため、幼稚園の先生と父母の尽力により創設された熊本ユナイテッドSCでプレーした。初期メンバーとしてのびのびとプレーしていた谷口は、勝つことでサッカーの楽しさをより知っていった。

「低学年のときは出る大会、出る大会で優勝して。いつも金メダルを持って家に帰っていました。だから、家族もすごいなって言ってはくれましたけど、当時の自分にとっては勝つことが当たり前だったんですよね」

ここまではプロになるサッカー選手ならば、よく聞く話だ。ただ、その状況が一変したのは小学校4年生のときだった。低学年までは5対5のミニサッカーが主流だったのが、高学年になると11対11になり、コートも広くなった。おまけに、熊本ユナイテッドSCは谷口が小学生になると同時にできたクラブだけに、上級生がいるわけもなく、大会に出ると6年生と対戦しなければならなかった。

「一気に試合で勝てなくなったんですよね。最初の大会なんて特にボロボロに負けましたから。たぶん十何対0みたいなスコアでした。それまで勝つことしか知らなかったから、めっちゃ悔しかったですね」

ただ、悔しくて泣きじゃくる息子を見ても、父・登志夫としおさんも母・春江はるえさんも、特にプレーに関するアドバイスをすることはなかったという。

「『次があるよ』みたいなことは言ってくれたように思いますけど、プレーについては何も言われなかったですね。うちは好きにやらせてくれたんだと思います。周囲には、負けた試合後に、『もっとこうしなきゃダメじゃない』って怒られている子もいましたけど、うちは何にもなかったですね(笑)。サッカーで怒られた記憶もなければ、褒められたこともなかったかもしれない」

だから谷口も、両親に弱音を吐くことはなかった。悔し涙を流すたびに、自分なりにどうすればもっとうまくなれるのかを考えて、日々練習した。


エレクトーン教室に引きずられて連れて行かれた記憶

目の前に座る谷口は、端正な顔立ちに加え、礼儀正しく、まさに品行方正という言葉がぴったり。おまけに子どものときから好きなサッカーでは親の手を煩わせることがなかったという。

あまりに完璧すぎるゆえに、どこか付け入る隙がないのかと探ってみた。すると、どうやら優等生だったのはサッカーに限った話で、他のことになると、そうでもなかったというから少しだけ安心した。

「うちの両親は、サッカーばっかりやらせてくれる感じではなくて、勉強とか、そっちのほうは口うるさく言われましたね」

聞けば谷口は、小学生のとき、サッカー以外に陸上教室と書道教室、さらにはエレクトーン教室にも通っていたという。

「陸上はそれほど嫌じゃなかったんですけど、習字とエレクトーンは嫌でしたね。特にエレクトーンはマジで嫌いで、マジで行きたくないって、駄々をこねている中を引きずられて連れて行かれました。本当に嫌だって言って小学3年生くらいでやめさせてもらえたんですけど、一応、それまではコンクールにも出ていたんです。でも、嫌いだから練習もしたくない。そうすると、お母さんに怒られて、マンツーマンでバリバリにしごかれる。『違う! そうじゃない!』って(笑)。本当にもう、それはそれは苦痛でしたね」

当時に戻ったかのように、こちらへ苦い顔を向けるから、心底嫌だったのだろう。そんな両親がサッカーにだけは、何も言わなかったのは、きっと好きなことには自然と向き合い、行動すると分かっていたからだろう。

「サッカーのことで親に相談したことってないんですよね。進路のこともそうです。自分の中で何となくサッカーを続けるなら、大津高校に行きたいなって思っていたら、ある日、母親に『あんた、大津に行くんでしょ?』ってボソッと言われて。そこで初めて、『あっ、大津に行っていいんだ』って思ったくらいですから。大学に進学する前にも、フロンターレに声を掛けてもらって、多少は揺らぎましたけど、プロになっても全員が全員、成功するわけではないという思いもあったので、自分で考えて、筑波大学に進学することに決めました。そのときも父親にプロになりたいとは言わなかったと思います。両親には、自分で考えたことを、やらせてもらってきた感じはします」

プロになるときも事後報告だった。大学を卒業して川崎フロンターレでプレーすることを自ら決めた後、両親には電話で伝えたという。「頑張れとだけ言われたような気がします」と、谷口は淡い記憶を辿たどる。

「だから何となく、自然の流れでここまで来たんですかね」

谷口は歩んできた道をそう表現したが、両親に“自然と”導いてもらったことは、誰よりも本人が一番分かっている。それは高校時代のエピソードからも知ることができるからだ。

「高校のとき、朝練があるから毎日5時21分の始発電車に乗って通っていたんですよね。駅まで自転車をかっ飛ばして20分。だから、だいたい5時前に家を出ていたんです。自分で起きることもありましたけど、だいたい4時半くらいになると、母親に『もう遅れるわよ!』って起こしてもらっていました。しかも、起きたらパンとか朝ご飯を用意してくれていて、その上、お弁当を持たせてくれたので、僕より、かなり前に起きていたはずなんですよね。練習を終えて家に帰ってくるのが、だいたい夜の9時くらい。初めて部活を経験して、こんな世界があるのかっていうくらい衝撃を受けたこともあって、家に帰っても疲れ切っていて。食事をしながら寝ているときもありました。母親には『早く食べなさい』『早くお風呂入りなさい』って言われて、うるさいなって思ったこともありましたけど、今思うと、感謝しかないですよね」

私生活では普通の子どもと一緒で、怒られることもあれば支えてもらっていたこともあると知り、またまた安心した。

「本当に両親には僕の好きなように、好きなことをやらせてもらった。でも、厳しいところは厳しかったというか。例えば、土砂降りの日でも、決して学校に車で送ってくれるようなことはなかったですね。手を出さないというか、手伝わないと決めたところは手伝わなかった。だから、自分で何とかしろという感じで育てられた。それが今もきていると思うんですよね」

そう言って、熊本という土壌で育った谷口は少年のように笑う。そして青年になった彼は、プロサッカー選手という目標をかなえたとき、両親への感謝をひとつの形にしたと教えてくれた。

「腕時計を買ったんですよね。あまり装飾品を身につけないタイプの両親なので、時計が一番いいかなって思って。最初はおそろいの物にしようと思っていたんですけど、なかなか良いのがなくて、別々の時計を買って贈りました。最初の給料で買おうって、ずっと決めていたんです」

小学校のころエレクトーンが嫌だと駄々をこね、高校生のころ部活に疲れ果て、食事しながら眠っていた谷口を見守ってきた生家は、震災により、今は更地になってしまったという。ただ、家族が過ごした思い出は色せることはない。それにまた、家族で新たな思い出を紡いでいけばいい。

「今の自分にできることは、サッカー選手としてピッチに立って、しっかり戦って結果を残すこと。それが大好きな熊本への恩返しになると思っています」

谷口が贈った時計は、両親の腕で新たなるときを刻んでいく。 (了)


取材・文=原田大輔(SCエディトリアル)
写真=佐野美樹

谷口彰悟(たにぐち・しょうご)

1991年7月15日、熊本県熊本市生まれ。MF。熊本県立大津高校時代は2年生のときに全国高校サッカー選手権に出場。その後、進学した筑波大学でもユニバーシアード日本代表として活躍。2014年に川崎フロンターレに加入すると、プロ1年目から頭角を現しリーグ戦30試合に出場した。リーグ戦全試合に出場した昨季に続き、今季もCBとしてチームの躍進を支えている。



《ファミリー》8人目の登場は、
鹿島アントラーズ・永木亮太選手です。