モーニング創刊40周年勝手に記念企画「名作家秘話」〈その① 山田芳裕〉

1982年9月9日号が創刊号である「モーニング」。つまり2022年夏に創刊40周年を迎えます! めでたいこの年を祝うため、唐突に特別企画をスタートします。40年のうち30数年、モーニング編集部に誰よりも長く現場の編集者として在籍していたF沢学先輩に、コミックDAYSは驚愕の秘話逸話を聞き出すことに成功しました。 「漫画」の本質が深く激しく理解できる(かもしれない)集中連載です。ぜひご一読を!

1982年9月9日号が創刊号である「モーニング」。つまり2022年夏に創刊40周年を迎えます!

めでたいこの年を祝うため、唐突に特別企画をスタートします。40年のうち30数年、モーニング編集部に誰よりも長く現場の編集者として在籍していたF沢学先輩に、コミックDAYSは驚愕の秘話逸話を聞き出すことに成功しました。

「漫画」の本質が深く激しく理解できる(かもしれない)集中連載です。ぜひご一読を!

 

──昭和の終わりからモーニングで働いていたF沢先輩ですが、最も付き合いが長かった作家が山田芳裕さんですね。

大学一回生だった山田芳裕さんは、1987年の正月休みに『大正野郎』を描きあげ、第16回ちばてつや賞に応募、二等賞にあたる入選をゲットします。自分はその年、あとを追うように編集部へ入ったので、まあ同期みたいな感じです。初代担当じゃなくて二代目ですけど。

──担当になる前から接点はあったんですね。

講談社の現在のビルができる前、各編集部が護国寺駅の近辺にタコ足的に分散してる時期がありまして、モーニングは長いこと、音羽通りの反対側、ファミリーマートの2階……といっても関係者しかわかんないですけど、とにかくそこにいまして、出入りもかなり自由でした。

作家の人たちもしょっちゅう編集部にやって来るし、連載作家がフロアのすみっこでネームをやってるなんてことも珍しくなかったです。

そんな大学のサークルの部室みたいな場所に一番頻繁に来てたのが山田さんですかね。担当者が外出してるとわかってても来る。ハラがへった、でもカネがない、編集部行けば誰かがメシ食わせてくれる。そういう刷り込みになってたんでしょうか。

ヤマダを知らないヤツはモグリというぐらいの名物新人でしたね。

 

──しゃらくせえヤツだと思ったんですか。

やけに腰の位置が高いというか脚が長くて、当時流行りのDCブランドのスーツにソフト帽というなかなかのオシャレ小僧で、『大正野郎』の主人公・平徹そのもの。カン高い笑い声がすごく特徴的で、むやみやたらとキャラが立ってましたね。

担当になったのは1989年だと思うんですが、初代担当のH江さんという先輩が体調不良で戦線離脱してしまい、自分にお鉢が回ってきました。

『大正野郎』のシリーズ終盤、当時はモーニングの増刊だった月刊アフタヌーン連載の『考える侍』の連載中盤あたりでしょうか。

──えらく長い打ち合わせをやってたんですよね。

ファミレスでコーヒー飲んでタバコ吸ってひたすらダベり続けるんですが、お昼から始めたのに気がついたら終電なくなって成増から中野まで歩いて帰ったなんてこともありました。

昔風に言えば談論風発というヤツではあるんですけど、次の話どうする、AがああしてBがこうしてCがこうなるみたいな具体的な話は一切しない。音楽の話、映画の話、野球の話など、作品とは一見無関係などうでもいい話しかしない。プロットは作者の中でたいてい固まっていて、それをどう立体的に動かすか、やる気をどれだけ高めるか、そのためにいろんな話を放射状にする感じでしょうか。

ディベートといえばディベートであり、無制限に「すべらない話」を続けるというのかな。気力、体力、知力の限りを尽くし、ウケるネタ、刺激になるネタを繰り出す。なんでもないようなことが不思議なことにネームになにがしか反映されている。自分たちにしかわからないことですが。

 

──著者近影でコスプレさせてますね。

『大正野郎』の第2巻では正岡子規とか石川啄木のイメージで坊主頭にしてもらい、テレビ関係ではおなじみの東京衣装から借りた着物を着てもらいました。

『考える侍』ではバカ殿みたいな衣装貸してくださいとこれまた東京衣装にゴージャスなのを用意してもらいました。

デザインもデジタル化以前だったので、デザイナーが写真をライターであぶって、紅茶に浸して古写真の感じを出したり、こだわりの男・山田芳裕の本にふさわしい遊びだったなと胸を張りたいんですがとうの昔に絶版ですね。

 

──その後、山田さんは小学館へ移籍しますね?

結果として自分が逃げられた、逃したことになりますが、当時の編集部が「かわいい子には旅をさせろ」とか言って、他社からの引き抜き工作に鷹揚だったのも一因で、新井英樹、松本大洋、土田世紀など、やがて大成する新人諸氏が相次いで護国寺から神保町に亡命していったわけです。

とにかく山田さんは自身初の週刊連載『デカスロン』をヤングサンデーで始めて、これが出世作となり、次の『度胸星』が未完のまま終わり、故郷のモーニングへ帰ってきました。

 

──『いよっおみっちゃん』『ジャイアント』を経て『へうげもの』ですね。

折々語り合っていた「うまずい」というキーワードが『いよっおみっちゃん』の原液で、『ジャイアント』は同世代の野茂英雄のメジャー移籍に作者がめっちゃ感動したわけです。こんなスゴい男がいたんだと。

話せば長くなりますが、デビュー以来変わらぬテーマである「日本人」の価値観の追究に時代劇と野茂と野球が新たな示唆を与え、それが『へうげもの』につながります。

 

──禅問答のようなところから生まれたんですね。

「日本人」とは何かと問えばお茶なりと。お茶といえばと問うたら千利休なりと。じゃあ利休やろうかとなったんですが、「笑い」こそ価値観のフィルターと考える作者にとって、利休はチト堅苦しい、主人公には不向きとなり、大穴の古田織部がにわかに浮上しました。

──結局、お茶より焼き物だったんですね。

古田織部のことは名前ぐらいしか知らないが、彼の好みは「織部焼」として現代に生きている。あんな左右非対称でゆがんだ造形を愛した男が凡庸なハズがない。茶人としてのスゴさにもまして「ものづくり」のぶっ飛んだセンスに、人一倍物欲が強くてデザインにこだわる作者がしびれた。

利休とちがって織部は史料が少ないので、織部焼を知ることで織部という人への想像がふくらんだ。戦国漫画じゃなくて「桃山」漫画と作者が自称するゆえんですね。

 

──スピンオフ集団も結成されましたね。

古田織部が組織したという陶工集団を現代の作家でやろうよという話になって、若手陶芸家(→激陶者)集団「へうげ十作」プロジェクトが始動します。

それまで陶芸家との関わりは一切なくて、リサーチを始めた矢先、青木良太さんというイケイケの作家が作者に茶碗を送ってくれました。それで交流が始まり、いろんな作家とつながることができた。彼とはやがて疎遠になってしまいますが、今でも感謝はしています。

『へうげもの』が終わっても続いている諸氏とのつながりは青木さんとの縁からなので。

 

──焼き物から多方面に世界が広がりましたね。

山田さんといえばとにかく「物欲」なんですが、既製のものじゃなくてできる限り「ないものが欲しい」わけです。おそらく古田織部という人もそうであったろうと思うんですが、この世にないから創りたい、創ってもらいたいわけなんですね。

そういう貪欲さに共鳴してくれた陶芸家だけじゃなくてデザイナー、茶人、画家、イラストレーター、ペインター、ギャラリスト、バイヤー、キュレーター、表具師、染織家、服飾家、音楽プロデューサー、ミュージシャン、DJ、僧侶、料理人、酒造家、ソムリエ、ライター、ガラス作家、金属作家、舞踏家、映像作家、etc.、順不同といった具合にいろんな領域の人たちが集ってくれて展覧会ができたりアルバムが作れたり日本酒が醸されたりした。

いわゆる商品化とか三次使用とは異なる自発的、自然発生的な「運動」だったので、山田芳裕という作家、『へうげもの』という作品の特質を物語る展開かと思います。この流れは現在連載中の『望郷太郎』でも生きていて、アートフェスでトリビュート企画をやったりしています。

 

──漫画からかなりハミ出ましたね。

山田さんってもともと漫画以外の領域に熱心な支持者がいましたし、「漫画」という枠の中ではどうにも収まりが悪い漫画家という気がしてました。広く浅くウケるわかりやすい作品を目指していたのではどうにも浮かばれないと思ったんです。

だから『へうげもの』を始める際、「反漫画脱漫画非漫画」てな内なるスローガンを掲げて、ひたすら漫画の外側へボールを投げ続けようと決めました。

もちろん、売れなきゃお互い困るので、選挙運動みたいにずいぶん書店回りもしましたね。あちこちで本屋さん見つけたらひたすら飛び込む。個人書店のご主人に、なんで自分とこに本を回さないのか、営業のヤツはなんでだれも挨拶に来ないのかと怒られたりして。

 

──三次元に生きた漫画でしたね。

もっと売れた漫画は山ほどありますが、青年誌というジャンル、モーニングというブランドならではの「名作」だったと思います。

いまはただ、『望郷太郎』が『へうげもの』以上に浸透して、山田芳裕という作家の実力がより高く評価されるよう願うばかりです。

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