『プラネテス』は「原稿をなくしたから」生まれた!? 幸村誠インタビュー(1)

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コミックDAYSインタビューシリーズ

1回 「幸村誠」(1
取材:構成=木村俊介

 

幼少期、漫画家を目指すきっかけ、傑作の誕生秘話――

なかなか表に出てこない漫画家の真の姿に、かかわりの深い担当編集と共に迫る。

 


 漫画家――幸村誠 作品に『プラネテス』『ヴィンランド・サガ』など

 編集者――金井暁 初代担当編集で現「アフタヌーン」編集長


 

 

第1回 『プラネテス』は「原稿をなくしたから」生まれた漫画?

 

20歳まで漫画を描いたことがなかった

 

幸村誠 僕が漫画を描きはじめたのは、20年前の夏ごろです。21歳でした。それまで、漫画を描いたことは1回もありませんでした。

それでも僕は、「漫画家」というものにはずっとなりたかったんです。中学2年生ぐらいになったら学校で急に「進路」って言葉が出てくるじゃないですか。

「……あれ、どうやら自分も、これから何十年間にもわたってやり続ける職業を、決めなきゃいけないみたいだぞ?」

そう気づかされて、あんまりにも自分の中に準備ができていないことには驚いたのですが、いちばん自然に思えたのは「漫画家がいいなぁ」という気持ちでした。

その後、高校に入って自分は学校が嫌いだなぁとつくづく思い知らされてからは、なおさら、すぐにでも漫画家になりたいと思うようになったんです。

「自分はなんで、中学を卒業してすぐに漫画家にならなかったんだ。高校に進学したのは間違いだった……」

むしろ、そんなふうに思っていましたからね。

ただ、今言ったような内容について両親に相談したら、猛反対されまして。でも、僕は他にやりたいことはなにもありません。

そうやって家庭内で協議を重ねた結果として「とりあえず大学だけは出ておきなさい」みたいな話になりました。そこから「絵の勉強になるかな」と思って美大を目指すことにしました。

そうなると、高校はもはや「行って帰ってくる」だけの場所になったんです。宿題もロクにやらない。勉強も部活もなにもしなかった。

一般的な高校生がやるような活動は本当になにひとつしなかったから、時間だけはすごくあって、それは良かったんです。デパートのコンニャク売場でアルバイトをして、画材を買い、学校帰りに画材道具一式をゴロゴロ転がして画塾に通いました。

コンニャク売場での「上州・下仁田、コンニャクはいかがですかぁ!」って声かけ、今でも覚えています(笑)。

画塾では高校と違い、絵を描くうえで「確実に前に進んでいる」と思える勉強ができて楽しかったですね。進学した美術大学でも、基礎を習ったという感じがありました。

ただ、当時描いていた油絵を通してみての「やりたい表現」というのは、特になかったんです。楽しかったけれど、どこか「練習」と思ってまして。だから、絵画作品の単体で達成したい表現なんてそもそも考えなかった。

では、画塾や美大でやっているのはなんのための「練習」なのかと言ったら、やっぱり漫画のためなんですよね。

そんな経緯で、20歳の頃に、読んでいた「モーニング」でかわぐちかいじ先生がアシスタントを募集しているのを知り、編集部に履歴書を送りました。ただ、かわぐち先生のアシスタントはもう別の方に決まっており…。

そこからご縁があって、守村大先生のアシスタントをやらせてもらうことになりました。

 

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※かわぐちかいじ…当時は「原子力潜水艦が独立国家を宣言し世界と対峙していく」という、とてつもないスケールで描かれた『沈黙の艦隊』を連載中。同作は80年代後半から90年代中頃の「モーニング」を代表する作品のひとつとなった。

 

金井暁(初代編集者/現「アフタヌーン」編集長) 当時、僕は「モーニング」編集部にいたんです。幸村さんに送ってもらった履歴書とイラストは、今でも社内のロッカーに保存してあると思います。絵はうまかったですね。

ただ、履歴書の写真がねぇ……。どこかの山の上で、逆光の中でバンザイしているものでした。満面の笑顔でね。うれしい気持ちはすごく伝わってくるんだけど、「この人は、たぶん、天然だぞ?」という……(笑)。

 

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※幸村誠氏がかわぐちかいじ氏のアシスタント募集に応募したイラストの一部。緻密な描写や人物の描きかたは、今につながる作風を感じさせる。

 

幸村 (笑)。その辺にあった写真をハサミで切って貼っただけですから。履歴書にはまじめな写真を貼るものだなんてことも知らなかったんです。

守村先生のところでアシスタントをさせてもらえることが決まった時点で大学は休学して、もうそれきり学校には行くこともなく中退したんです。

父などは諦めていましたね。僕はもともと言ったら聞かない子でしたから。「わかった」「もう、好きにやりなさい」って感じだったんじゃないのかなぁ。

学校は僕の性には合わなかったんです。絵を描く学校なら高校までと違って馴染めるんじゃないかと思って進学した美術大学も、行ってみたらやっぱり好きではなかったし。

こんなに自分のやりたいことに近い環境の学校さえも好きではないのなら、もう、僕はほとほと学校に向いていないのだろう。それがよくわかったので、2年生まででやめたわけです……。

 

守村さんとの「線の違い」に打ちのめされる

 

幸村 画塾や美術大学で、ほん3~4年とはいえども絵の練習をしていたので、守村大先生の職場に行った20歳の頃には、アシスタント業務も「少しはできるようになっているつもり」だったのです……とんでもなかったんですよね。

 

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※守村大…当時は『考える犬』を連載中。売れっ子編集長とその飼い犬、そして家族たちの「泣けて笑えるヒューマンドラマ」は好評を博した。

 

もう、線が引けないんです。守村先生は実に伝統的な描法をなさるので、漫画を総合的に勉強するうえで最も良いお手本のような描き方をされているのですが、とにかく僕は現場で、線さえも引くことができませんでした。基礎もなっていなかった自分に気づかされたというか「……うわ、基礎練習ってどれだけ続くんだろう?」と思いましたよね。

あぁ、なにもできていないなぁと思いながら、すぐに1ヵ月が経ってしまいました。

今言った「線が引けない」とは、どんな感覚なのかと言ったら……いや、これは自分でも「なんで線が引けないのか」がわからないほど不思議な体験だったんです。

漫画の下書きがありますよね。守村先生の描いたものすごく綺麗な絵が載っている。そこに、守村先生が使っておられるのと同じ道具でひゅっと線を引いてみる。

「あれ、引けていないぞ!」「おかしいなぁ、まったく同じ道具でやっているはずなのに……!」

そうやって焦るわけです。言葉ではうまく説明できませんが、線を引くという比較的やさしいように思えることでさえも、経験値の違いというものをまざまざと思い知らされましたねぇ。

何十年間と線を引き続けてきた人の線と、昨日今日に引きはじめた人の線とは、明確に異なることがわかりました。

だから、「モーニング」の守村先生の原稿に僕の線が載っているのが、もう本当にいやで申し訳なくて……。ヘタな新人アシスタントが入ったのだろうと確実にわかる線ですからね。

そんな、なにもできない僕に対しても守村先生は給料をくださり、それにも申し訳なさを感じました……。

金井 新人の頃は今のような体験をする場合も多いですよね。守村さんからも新人時代の近い経験を聞いたことがありますから。

若い時の守村さんは一時的なヘルプ要員としてだけれど、大友克洋さんの職場にアシスタントに行ったそうです。それで「ぜんぜん描けなかったからベランダでふてくされていた」という。

僕が聞いたのは、今のような「ふてくされた」って言葉だったけれど、守村さんの性格から想像して、もしかすると悔しくて泣いていたんじゃないのかなぁ。ともかく、ベランダでずっと煙草を吸っていたようで、そこに大友さんがやってきた。

「おれも、若い頃はすごいヘタだったんだからさ」そう言ってなぐさめてくれたらしいんです。ほら、こんなにヘタだったんだよと、大友さんの新人時代の絵まで見せてくれたようで。

「……そうしたら、その絵、ものすごくうまかったんだ!どこがヘタなんだ、ふざけんなってぐらいにさぁ……」

守村さん、「その絵で、またガクッと来た」っておっしゃってました(笑)。

 

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※大友克洋…代表作に『童夢』『AKIRA』など。「漫画の概念を変えた」とまで言われる圧倒的な作風で、漫画界のみならず多くのクリエイターに影響を与えた。なお、コミックDAYSのロゴは大友氏による描き下ろし。

 

幸村 僕が守村先生の生原稿を拝見した時にも、とにかく「うまいなぁ……!」と驚きましたね。しかも、1話描くのに守村先生は長くて4日間しかかからない……。

「いやぁ、ウソだろう?どうやって描いているんだ……」と当時も思いましたし、それはいまだにわかりません(笑)。

中学や高校の頃から、漫画家のほかになりたい職業なんてなにもなかったのにもかかわらず、自分の作品を描かないままだったのは、そうやって「そろそろ、描けるんじゃないか?」というようなタイミングになると、いちいち打ちのめされるようなことがあったからなんです。

「おれには漫画は描けないかも」と思わされるというか、クリアしなければならない課題がやってきて…。

守村先生の魔法のように速くて綺麗な生原稿を拝見して、守村先生の右腕としてアシスタントをしていた凄腕の方から仕事を見せてもらって、自分はまだまだだなぁと痛感していたんです。自分はもっと描けるようになって、お給料を堂々ともらえる立場にならなければという……。

 

原稿をなくし(かけ)て描くことになった「はじめての作品」

 

金井 そうやって守村さんのところでアシスタントをしていた幸村さんに「漫画を描いてみませんか?」とお願いしたのは僕ですが、そのきっかけもはっきりと覚えています。

当時、「モーニング」で木葉功一さんの『キリコ』という作品がはじまったんです。木葉さんはあれこれと無茶な漫画の構想も含めて持ちかけてくれるような魅力的な方で。僕は幸村さんに対して、木葉さんのアシスタントにヘルプで一度入るのはどうか、と提案しました。

 

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※木葉功一…刑事・遊佐と女暗殺者・キリコの血と愛にまみれた世界を描いた『キリコ』で、熱狂的なファンを生んだ。

 

金井 そこで、幸村さんは原稿をなくしかけたんです。

幸村 あぁ、忘れたい過去をポロッとばらして……(笑)。

金井 (笑)。ははは。当時の木葉さんの職場は、まだコピー機を入れていなかったんです。それで、編集者に原稿を渡す前には、後で確認する時のためにコンビニでコピーを取っておくようにしていて。コピーを取るのはアシスタントの仕事だったわけだけど、幸村さんはその際に生原稿をコンビニに置いてきちゃったという

幸村 あれは、申し訳なかったです……。

金井 「原稿が1枚なくなったらしい」と聞いて、幸村さんを紹介した手前、僕もすぐに謝りの電話を入れたんです。

「見つかったから、大丈夫です!」木葉さんは、そう明るく言ってくださったんです。

さらに「アシスタントで来てくれたあの幸村さんという人は、これから後、十年後、五十年後、百年後と、のちに起きるであろう出来事を記した宇宙史年表のようなものを、ずーっと描いていて、面白いですよ……!

そんなふうにも言ってくださって。電話が終わった後、幸村さんにも電話をかけたんです。木葉さん、寛大にも怒っていなかったよ、みたいなことを伝えるために。……で、その電話で「木葉さんが感心していた宇宙史年表みたいな漫画を、試しに描いてみないか?」って話したんです。

幸村 それが20年前の今ごろでした。それで、生まれてはじめて描いた漫画が後に続く『プラネテス』の第1話になったんです。

金井さんが言ってくださった「試しに」ってなにを描けばいいんだろうか、と少しは躊躇したけれど、僕はSFが好きだったので、その時のSF的な興味関心の中で気になっていた、スペースデブリと言われる「宇宙ゴミ」の問題について描くことにしてみたんです。僕たち人間は宇宙でもゴミを出し続けているようで、業の深さが果てしないなぁと感じていたので。

「守村先生は、ネームと言われる話の案を、確かこんなような紙を使って、こんなふうに描いていたよなぁ……」 そうやって、見よう見まねで描いた案を金井さんに見せてみたら、どうも、掲載してくれるみたいで。

それで、やった、と思って描いてみたんですが……その1話を描き終える頃には、もう、なんと言うか、「……やりきったなぁ」とも思ってしまった。いや、驚いたんです。漫画を描くのって、こんなに大変なものだとは……という。

「こんなにきついのだから、さらに漫画を描き続けることは無理だろう」

はじめて漫画を描いた直後は、「やった」「できた」なんて達成感よりも「大変だ」「これでごはんを食べていくなんて、無理だろう……」という気持ちのほうが強かった。しばらくは、アシスタントとしてやっていこうと思っていたら、金井さんが「第2話を描いて」とおっしゃったんです。

金井 でも、第1話を描くまでに1年間かかっていましたからね。

幸村 かなりかかった。守村先生は1話描くのに4日間ですけれど、僕は1年間もかかって……(笑)。

 

描くのに1年間かかった1話目はコチラ!

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アニメ化決定! ヴィンランド・サガ1話目はコチラ!

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