40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【太田光代】

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第5回は27歳で立ち上げたタレント事務所「タイタン」の社長として、また夫である爆笑問題・太田光の妻として、30年以上を過ごしてきた太田光代。「人のために」尽くした怒涛の30代を経て、40代で至った境地とは。

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第5回は27歳で立ち上げたタレント事務所「タイタン」の社長として、また夫である爆笑問題・太田光の妻として、30年以上を過ごしてきた太田光代。「人のために」尽くした怒濤の30代を経て、40代で至った境地とは。
(取材・文:門倉紫麻 インタビュー写真:村田克己(講談社写真部)

※この記事はモーニング33号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

何かのために何かをあきらめるのは、違うと思った

 

 「30代の記憶がないんですよ」

 10代の頃から「お金にも余裕ができるだろうし、楽しそう」と心待ちにしていた太田光代の30代は、仕事に忙殺されたまま終わった。

 自身もタレントだった24歳の頃、同じ事務所の仕事仲間だった現在の夫・爆笑問題の太田光が仲間と共に家に来て、そのまま一人だけ帰らなかった。それ以来、共に過ごしてきた。

 爆笑問題が所属事務所を辞めた時には「しばらくの間、私と(光の相方の)田中(裕二)とで同じコンビニでバイトをしていました。うちの太田がほかに何もできない人なので」。

27歳で、爆笑問題のマネジメントのために、タレント事務所「タイタン」を立ち上げ、太田光代が自ら社長になった。爆笑問題は多くの人に支持され、3人だけだった小さな事務所はほかのタレントを迎え、従業員を迎え、どんどん大きくなった。当然、彼女の仕事は膨大な量になった。

 「42歳ぐらいの時にふっと『私、一体何をやってるんだろう?』と気が付いて。そこまで丸々12年分の感情というか、記憶が抜けちゃってるんです」

 記憶にないぐらい忙しかった、という喩えではなく、実際に覚えていないのだということが表情と口調からよくわかる。そもそも話を盛るようなところや、自分を良く見せたいというような欲が彼女からは感じられない。

 「聞かれれば、ある程度は当時のことを答えられるんですけど。自分では、ぱっと思い出せない」

 どこにもはっきりとした病気はないのにも関わらず、体重が危険なくらいにまで減るなど30代でどんどん体調が悪化した。

 「がむしゃらに働くと、こんなにも体に表れるんだなと思いました」

 具体的な業務内容を聞いていくと社長業という概念では表せない、太田の働く日々が浮かび上がってくる。

 「太田(光)が書いたものは、一応私が社長としてチェックをしなきゃいけない。本もたくさん出版している人なので、とにかく読む活字の量がすごく多かった。慣れるまでは、目をつむると真っ白な中に、活字があらゆる大きさで飛んでいくような状態で。だから目もつむれないの。寝るのが怖かった。電話もひっきりなしにかかってきて、またかけて、と終わらないんですよね。しゃべりっぱなしだから酸欠みたいになって、酸素を吸いながら電話していたこともあります。次の仕事に一瞬で気持ちを切り替えないといけないのがつらいんですよ。一つ前の電話と今の電話では関わるタレントも違うので内容が全然違うし、打ち合わせでも、前向きなお話をする時には、その前のいい話じゃない雰囲気を相手に感じさせたりすることも良くないと思っていたので」

 彼女がどれほどのストレスにさらされていたのかがありありと想像できて、胸が苦しくなる。

 

自分がいいと思ったものは、人にも勧めたい

 

 「人からは『旅行にでも行ったら?』と言われたりしたんですが、夫は外に出るのが好きではないので、一緒に行くこともできない。自分の疲れは自分でとらないといけない、と思った」

 短時間で気持ちを切り替える必要性に迫られた太田はアロマテラピーとハーブと出会い、39歳でハーブ専門店「ウィッチムーン」をオープンさせる。

 「香りはダイレクトに脳に伝わるので、アロマは気分を変えるのにすごくいいんです。そこからハーブも取り入れるようになって。当時はハーブ専門店自体がほぼなかった。ハーブに詳しい小学生からの幼なじみに店長をやってもらいました。会社にいる時にも、そこで扱っているアロマやハーブティーで気分を変えていましたね。だましだましやらないと、ストレスがたまる一方だった」

 すぐには根本的な解決に至らなくとも、日々を乗り切るために必要だったのだ。

 「本当は、そのお店に心療内科を併設したかったんですよ。でもお医者さんが圧倒的に少なくて見つけられなかった。日本でも精神的なケアをする習慣が根付けばいいなと思いますね。思いついたらすぐに飛び込めるぐらい、たくさん診療内科があるといいなと思う。友達とか家族に相談するより、専門家に話して判断してもらったほうが正しいことに近い答えをくれると思うんですよ。自分を守るという意味では、特にストレスフルな状況で働いていて悩みを抱えがちな30代、40代の人たちが受診する癖をつけるのはいいことだと思う。保険医療の中に、メンタルケアがしっかり組み込まれればいいのにと思う。コロナ禍のストレスもありますしね」

 同席していた編集者が「ご自身に必要だったというだけでは、お店を出す行為にまで行くのはハードルが高いと思うんです。人のために、というお気持ちがあったのでは?」と質問する。

 「私の後に来る人に……、誰かの役に立つだろうとは思いました。私もすぐにアロマやハーブに行き着いたわけでもないんですよね。漢方も試したりする中でたどり着いて、そこからいろいろと広がっていったんですよ。その後でお花屋さんも作ったんですけど、人間は恐らく昔から植物を見て育っているでしょうから、花を見ることもリラックスにつながるのではないかなと思って。アロマの嗅覚からハーブの味覚、お花の視覚、と全部がつながってるような気がするんです。ハーブは間違って伝わってしまっているものもあったので、そうじゃない形できちんと伝えたかった」

 忙しい中で、芸能とは全く違う新たな業種の仕事を増やすことは、さらなるストレスにはつながらなかったのだろうか。

 「逆にストレス発散になりました。ハーブのお店には、行くこと自体も好きでしたね。そこにいると、スローに時間が動いていったんです。もちろん、仕事の確認で行くこともあったんですけど、行くとすごくリラックスできた。私自身は不妊治療をしても子供はできなかったんですが、ハーブ屋さんに働きに来ていた不妊治療中の人にあっという間に子どもができたりして。それもうれしかったです。自分がいいと思ったものを人に薦めるのは、私にとっては割と発散に近い行為かもしれない。芸能プロダクションの仕事も、自分がいいと思ったタレントを薦めることですから。それは嫌いじゃないんですよ。自分自身のことを薦めるのは難しいんですけど」

2015年にはハーブと共に生花を扱う「アリエル&ウィッチムーン」をオープン。
現在は生花店とペットのためのセレクトショップ。

 

世の中に対して、たくさんのことをやらなければいけない

 

 幼少期の話になると、脚の病気で母の顔を忘れるほどに長く入院していたことが語られるが、つらい記憶が細部にわたって次々に出てくる。特に、意地悪をされて差し入れのお菓子が彼女の手に渡らず、食べられなかったことが今でも忘れられないと言う。

 「なぜそこまで恨んでいるんだろう? と思う。退院して、いろんな種類のお菓子をたくさん食べて十分取り戻したはずなんですよね。しかも私は数年で完治して、歩けるようになった。それなのに、その時のことが今でも人生で一番つらい記憶なんです。でもある時、今も病院にいてお菓子が食べられない人、そのまま歩けない人、亡くなった人もいる、と気づいて……」

 一見、これまでの話とは関係がないように聞こえるが、この経験が太田光代の現在の活動につながっているように思える。爆笑問題のために自ら事務所を立ち上げたこと。所属タレントのために仕事を得ること。ストレスを抱えた人のためにハーブの店を作ったこと──。

 「事情があってやりたいことができない人もいる中で、完治した自分はいろんなことができるようになった。世の中に対してたくさんのことをやらなければいけない、という気持ちはありますね。それは、大人になる前から思っていました」

 「人のために」動く太田光代を作ったものの一つが、この入院経験なのかもしれない。

 不妊治療の経験をメディアで話すことも、不妊治療に励む人や、妊娠・出産に関して悩みを抱える多くの人の励ましになった。

 「36歳の時に不妊治療をしていたんですが、当時は公にするものではないという空気もありましたし、私もなぜか言っちゃいけないような気がしていたんですよ。本当はみんなで協力しあわないと不妊治療をつづけるのは難しいのに。午前中に病院に行くようにしていたので打ち合せは大体午後に設定していたんですよ。そうしたら『太田さんは、朝が弱いの?』って言われたんですよね。そうか、誰にも言っていなかったなと。何年か後に、久米宏さんの番組に出た時に、思い切って不妊治療の経験を話すことにしました」

 番組の反響は大きく、その後、自身も47歳で不妊治療を再開、さらに多くの情報発信を続けた。

 「こういう仕事をしているのだから全部を手に入れるのは無理なんだ、という変な感覚にとらわれていたんですよね。仕事をすることも、私たちの時には男女雇用機会均等法ができたものの、まだ『腰掛け』みたいな考え方もありましたし。仕事を続けることで結婚を諦めたり、子供を諦めたりする人もいた。でも何かのために、何かを諦める、みたいなことは違うんじゃないかなと思いました」

 それを体現してくださっているように思います、と言うと「そうせざるを得なかったですね」と答えた。

42歳の太田光代。「知らぬ間に」40歳になっていたほど忙しかった。

 

慎重になる年齢だが、攻めなきゃいけない年齢でもある

 

 42歳まで記憶を失っていた太田光代が今、40歳を前に迷ったり、怖いなと思ったりしている人に向けて、なんと声をかけますか? と聞いてみる。

 「ああ……、それは多分50歳を前にした時の私の気持ちですね。40歳になる瞬間は知らぬ間に過ぎましたけど、50歳になる前は、ちょっと怖かったんです。だから40歳の人に言うとしたら、『まだまだ先がありますよ』ですかね」

 社長という立場からは、40歳の仕事人をこんなふうに見ている。

 「大体の会社では管理職になってくる。若い頃の浅はかな自分のこともわかった上で、20代とか下の世代に接することができるようになる時期じゃないでしょうか。若い頃よりも慎重にもなることもあるし……。その中で、攻めなきゃいけない年齢でもある。会社や業種によってだいぶ変わってくるとは思いますが。まあ、大人の社会での経験値を持って、いろんなことが達成できる年齢ではあるかなとは思います。自分が関わったチームで仕事がうまくいくと、協調性が生まれると思うんですが、それが管理職には重要だと思っていて。協調性がないと人の面倒を見られないですからね」

 ここで編集者が、こんなふうに話し始める。

 「僕は今50代なんですが、思い返すと30代までは勢いで来られていたのが40歳ぐらいで変わってきたなと。甘えたことを言えば、誰かにプロデュースしてほしい、方向性を見いだしてくれる人がいるといいなと思っていた時期だったと思うんです。だから光さんが、自分の内も外も知っている光代さんに冷静に意見をもらえたりするのをうらやましくも感じていて。それで今回インタビューをお願いしたいと思ったところもあるんです。社長として、奥さまとして、光さんをどうご覧になってきたのでしょう」

 ここから、夫婦というものについて踏み込んだ話になっていく。

 「奥さまとしてはですね……。夫は家にいても何もしないですからね(笑)。すごく忙しくなる前、30代はじめぐらいの頃は、時々料理を手伝っていたんですよ。あじフライを作るのにあじを三枚におろすぐらいはやってもらった。なんでも『手伝う』とは言うので、じゃあこうして、と言えばできるんです。あと皿洗いは好きでしたね。ただし、長いんですよ。そんなに洗う? ってみんなが言うぐらい時間をかけて洗って(笑)。あとは……スタジオに入っているとその日何が起きたかがよく分からなくなるので、私がニュースを見て今日はどういうことがあったかを伝えていました。知っておかないと、漫才は作れないですから」

 太田は、こうして具体的な出来事を積み重ねるように語っていく。それを聞くと、その時の空気と感情が、こちらにしみこむように伝わってくる。

 「夫は、ものすごく昭和な、昭和初期かっていうような人なんですよ。テレビを観て抱いていらっしゃるイメージとはちょっと違うかもしれない。見ていて面白くはあるんですけどね。外で私と一緒にいても、自分が一番居心地の良さそうな席に真っ先に座る。最初は何だろうこの人って思っていましたけど、だんだん慣れてきました。タレントさんですからね」

 

「人のために」ばかりではいられない

 

 「居心地の良さそうな席に真っ先に座る」人、というのは外から見た太田光の奔放で自由なイメージとも合致する、おもしろい描写だ。社長からタレントへの目線と、妻から夫への目線とが交錯して出た表現のようにも思えるが、どちらの目線になる頻度が高いのだろう。

 「社長として見たほうが楽です。『タレントだからいい席に座らせてあげよう』と思えるので。妻としてだと『そこ、私の席じゃないの?』と思ってしまう」

 仕事もプライベートも共に過ごす相手への目線は、その都度切り替えるのだろうか。

 「切り替えなきゃいけない時期もあったんですけど、今は仕事の現場にはほかの社員がいるので。社長としてだけではなくて、妻としても、太田に接する時間自体が減っていますね」

 著書の中で語られる、寝る前に何時間も話をしたり、光代が光に腕枕をしたりと数々のロマンティックな習慣を知る者としては勝手に寂しくも思っていると、こう付け加えた。

 「ただ、夜寝る時だけは、ダブルベッドで2人で寝るようにはしています。それをしなくなると、本当に顔を合わせないことになるので」

 周囲の環境やそれぞれの感情がどんどん動いていく中でも、夫婦で居続けることの覚悟のようなものと愛情とが伝わってくる。

 「これはこれでいいのかなと。あまり売れていない時が、夫婦としては一番幸せでしたね。33~34歳くらいからは私が家にいることがほとんどなくなって。爆笑問題以外のタレントのことで忙しくなっていった。その辺りから、彼の様子がおかしくなっていったと思うんですが、私が家に帰るともう寝ているので、気づきようもなくて」

 ではいつそれに気付いたのだろう。

 「それが先ほど言った、42歳ぐらいですね。『この人、今までと違う』と。よそよそしいんですよ。それまでは、すごく『かまってちゃん』だったから。30代でも一度あったんですけど、反抗期だったんじゃないかなと」

 それを、どう乗り越えたのだろう。

 「乗り越えてないです。乗り越えないまま、きています(笑)。今はだいぶ収まってきたような気もしますけどね。『ほかの人のことをやらないでほしい』ということだったのかなと思いますけど」

 自分だけを見てほしい太田光と、それを理解している太田光代。ならば光にそのことを話してみたりはしないのだろうか。

 「でも……、人を連れてきちゃったのは彼ですからね。私は落語家のおかみさんみたいに『爆笑問題カンパニー』をやりたいと思っていたんですよ。でもそのことを夫は忘れちゃっている。昨日もそういうことを言いだしたので、『あなたはそれで自分以外の人の仕事を増やすでしょう? 事務所を立ち上げた頃もそうだったじゃない』と言ったら、ようやく思い出したみたいです(笑)。別のタレントさんを抱えることになったら、話は変わってくる。ちゃんとした芸能プロダクションにしないと、働いている人にも所属するタレントにも失礼ですから」

 経営者としての手腕、責任感、人に対する愛情の深さ、自身も表舞台に立った経験、幼少期の経験。本人が望んでいるかどうかは別にして、太田光代はそうしたものを持ってしまっている。そしてやらねばならない状況に置かれれば、最善を尽くしてしまう人なのだ。

 「42歳で、私なにやってんだろうと気が付いた時は『わかってよ』とは思いましたけどね。自分からは、自分がやっていることを言ってこなかった。夫にも、ほかのタレントにも……、夫もタレントですからね。30代でがむしゃらに仕事をしたので、振り返ればいろんなものがいっぱい出来上がってはいました。でも、自分のためには時間を使わずに来てしまった。夫が付き合ってくれなくてもいいから、自分のために、好きなことをしようという『自我』が芽生えました」

 人のために時間を使った30代から、自分のために時間を使う40代へとシフトした。

 「そうしないと、ちょっともう無理かなと思った。そんなに『人のために』ばかりではいられないですよね。遊んだり、やりたいことをやったりしよう、と。やりたいことと言っても、単純なことですよ。船に乗ってどこかに行きたい、とか。船旅だと携帯電話も通じなくなるし(笑)。去年の11月には、女子社員を連れて船旅をしました。30代の頃は友だちに旅行に誘われても忙しくて行けなかったんですよ。でもそんなの時間を作ればいいだけなんですよね。行けないって言ってるから行けないんだなって。先に、何としてでも行くことにすればいい。そっちの方が楽しいよね、と気づきました」

 明るい何かが見えた気がして、ほっとしました、と口に出してしまった。

「そうですよね(笑)。記憶が戻ってからは、思い出を作っています」

 

狭い老人ホームではだめかもしれない

 

 今年で58歳になった。ここからの人生は、どのぐらい先のことまで考えているのだろう。

 「うーん。昔から大人が楽しめるレストランシアターを作りたいと思っていたんですよ。それを実現するのにどのくらい時間がかかるか、というのがまずあるんですけど。食事をして、その後エンタメを観られるような場所ですね。後は、どのぐらいまで働けるかですよね。近くで見てきた先輩たち……、例えば桂由美さんは90歳でまだまだ元気でお仕事されていますし、すごくパワフルなんですよね。私はそういう方たちの中では一番年下みたいなものですから、これからもいっぱい仕事をしなきゃとは思っています。とはいえ、いずれは判断能力も鈍るでしょうから、どこかで自分から引かないといけないですね」

 今から冷静にそう意識することができているのが太田らしい。

 「鈍る前に引くのが大事。こういう仕事は、自分だけじゃなくて、人の人生を狂わせちゃうことになるので」

 編集者が「光さんのことは、どんなふうに考えていますか?」と聞くと「レストランシアターがあれば、死ぬまで舞台に立っていられるんじゃないでしょうか」と、芸人・太田光についての答えが返ってくる。

 「もともとなぜレストランシアターを作りたかったかというと、タイタンのタレントだけではなくて、タイタンライブにゲストで来てくださっていた人たちも、ずっと立てる舞台があったほうがいいと思ったからなんです。大人は、大人が舞台に立っているところを観たいと思うんですよ。お笑いライブの日があってもいいし、映画を上映する日、ジャズを演奏する日があってもいいですよね」

 では太田光が爆笑問題ではなくなり、太田光代も社長ではなくなった時、夫婦2人での老後をどう過ごすかについてはどう考えているのだろう。

 「いろんなものを片付けたら、2人で老人ホームみたいなところに入る、ということになるのかなと思います」

 かつてのような夫婦2人きりの時間を過ごすことは、楽しみでもあるのだろうか。

 「怖い……かもしれません、ちょっと。常に存在が近くにあるみたいなことがなくなって久しいので。お互い、空気以上に気配がない(笑)。だからあんまり狭い老人ホームだとだめかもしれない」

 そしてやっぱりこう続けた。

 「でも寝る時だけは、同じベッドなんですけどね」

 

(了)

 

太田光代 Mitsuyo Ota

 

1964年東京都生まれ。株式会社タイタン代表取締役社長。タレント活動を経て、91年タレント事務所「タイタン」を設立。2003 年には別会社を設立しハーブ専門店「ウィッチムーン」をオープン。著書に『独走』など。

 

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