40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【みうらじゅん】

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第4回は「いやげ物」「ゆるキャラ」「マイブーム」……「変なこと」を続ける努力を惜しまないみうらじゅんが、40歳を前に「カスハガ」を紹介する場として選んだのはモーニングだった。オリジナリティあふれる仕事術。

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第4回は「いやげ物」「ゆるキャラ」「マイブーム」……「変なこと」を続ける努力を惜しまないみうらじゅんが、40歳を前に「カスハガ」を紹介する場として選んだのはモーニングだった。オリジナリティあふれる仕事術。
(取材・文:門倉紫麻 インタビュー写真:柏原力(講談社写真部)

※この記事はモーニング32号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

正当な漫画誌でやりたいと思った

 

 「あ! 僕、『カスハガの世界』を連載していた頃のモーニング、持ってると思うんですよ」

 取材終盤、写真をどう撮るかの相談中、みうらはそう言って「SCRAP ROOM」と書かれた部屋に入っていく。1分もしないうちに保存状態のいい96年44号のモーニングを手に戻ってくる。

 「すぐ出てくるところもいいでしょ。先に用意していたわけじゃないですよ。表紙に『カスハガの世界』って文字が入ってる。うん、これを持って撮りましょう。背景は特にいらないですね」と自ら画作りを口にする。

 モーニングの表紙をめくると「第1回は巻頭カラーだ! 大プッシュしてくれてるね。『あなたはカスハガを知っているか?』ってアオリが入ってるけど知ってるわけない(笑)」

 「みうらが命名した“カスハガ”とは、メジャーとは言い難い観光地で売られている絵ハガキセットの中にある“カス”のようなハガキのこと。それを読者から募集し、みうらが選定、漫画でその世界観を紹介する企画だ。

 「今みたいにネットがあれば募りやすいと思うけど、当時はないですからね。それなのに毎週ダンボール1箱分くらいのカスハガが送られて来たんですよ。当時は出版界も景気がよくてプレゼントが豪華だったのもあると思いますが」

 96~97年、みうらが38~39歳の時にモーニングで連載され、翌98年、ちょうど40歳の時に単行本が発売されている。

 取材冒頭で「今回の企画にぴったりでしょう? 僕、モーニングにはものすごく縁もゆかりも、思い入れもあったんですよ。それは絶対言いたい! と思って引き受けたんです」と言い、取材中もたびたびモーニングに話題を寄せてくれる。だがそれはただの気遣いではなく、みうらにとって掲載媒体、つまり「どこでやるか」が大きな意味を持つからでもあるのだと後々わかってくる。

 「講談社ではヤングマガジンで新人賞とちばてつや賞の佳作を頂いて『見ぐるしいほど愛されたい』っていう連載をさせて貰っていたので、その流れで頼まれたんじゃないですかねえ。もう漫画のアイデアがない頃でね。今まで描いてきたものの続編でも描こうかな、と、ある日、友人のいとうせいこうさんに話したところ『みうらさん、追い込まれたら何かアイデアが浮かぶはずだから』って叱られて(笑)。それでようやく考えて出したのが『カスハガの世界』だった。あと、40歳の時は『崖っぷち』ブームだったからTBSの朝の番組を使ってね、『いい崖があれば教えてください』と言ったりね」

 “崖っぷちブーム”は、日本各地の崖を「角度」「立ち位置」「せつなさ」の観点から鑑賞する、というもの。

 「そうしたら生放送中にものすごい数のFAXが来たの。テレビ局の人も驚いていました。だから、『いる』んだよね。崖とかカスハガみたいなセンスの好きな人が。どう表現していいかわからなかっただけなんですよね。『古い絵ハガキじゃん』って言ってしまえばそれでおしまいだけど、『よく見たら何か変じゃね?』っていう視点です。それらメジャーになり得なさそうなものを世に出すのが僕の役目なのかなと」

「いい崖めぐりの旅」で崖を味わう、40歳のみうらじゅん。

 

 ほかにも“見仏”“いやげ物”“sinceブーム”そして“ゆるキャラ”など、「よく見たら何か変」なものがみうらの手によって名を与えられ、どれだけ世に放たれたことだろう。

 「当然、カスハガをやっていた頃も、マイナーな場所では既に変なものは紹介されていたんだけど、僕はそれをメジャーな場所に持っていきたいといつも思っていたんです。全然興味ない人のところに変なものが持ち込まれる快感というのでしょうか? だからモーニングという正当な漫画誌でやりたいと思いました」

 自分が好きなものが広く知られていく喜びも……と質問し終わらないうちに「いや僕もそもそも好きじゃなかったもん、そんなもん」と否定され、思わず吹き出してしまう。

 「好きじゃないからこそ、見つけた時の違和感がすごいんですよ。10枚セットの絵ハガキの中に一枚、申し訳なさそうに駅ビルの写真が入っていることの違和感。それを人に伝えたくてしょうがない。今はSNSとか携帯ですぐ友だちにおかしさを伝えられるけど、昔は旅先から実物を送るしかないですからね。高校の頃は取り分けカスなのを選んで友達に送ってました。
 いまだにいろんなものを買ったり集めたりしているけど、好きでやっているわけじゃないということだけはわかってほしい。『これ誰が買うんだろう?』って違和感を持った時に『俺だな』って無理やり自分に言い聞かせてるだけですから」

 愛情がないようには見えないと思っていると「続けていくうちに好きになっていくんだとは思いますけどね」と付け加えた。

 「こんなものでメジャー誌の連載をしているのはおかしい、とわかってんですよ、僕も。でもね、読者の方から『これはまだまだカスハガじゃないでしょうか?』とか書いて送ってくる。そんな選定基準ないし、そもそもカスハガの『世界』なんてない。しかし、だんだんとそれが『ある』ようなことになってくのが面白くてね。やっぱメジャー誌は、『ある』ように見えるのも早いはずだと思ったんですよ。ある時期、確実に『カスハガの世界』はモーニングの中にありましたからね(笑)」

96年モーニング44号の巻頭カラーを飾った『カスハガの世界』。

 

「自分」じゃなくて、「自分のやること」

 

 39歳の時には、みうらが提唱し、今では誰もが気軽に使う“マイブーム”が新語・流行語大賞に選出されている。40歳前後にみうらじゅんという人の凄さが、世間に定着したように見える。

 「39歳でしたか。それまでに考えていたことが、第1期としてまとまり始めた頃だったのかもしれないですね。でもそのままじゃ面白くない。また、パンクな気持ちが出てきた頃でもあったと思います。エロ雑誌用に書いた原稿をそのままオシャレな雑誌に送って、困られたりもしてましたから」

 本企画が、40歳を前に迷いを抱く人向けのものであることを改めて伝えると「ああ、確かに迷いはあるでしょうね」と共感を示す。

 「周りからはおやじと呼ばれ始めるけど、自覚がいまひとつないですからね。道で『おい、おやじ!』って呼び止められても気が付かないっていう人は、きっと悩むと思いますよ。諦めがついていないっていうかね。やっぱりまだ、他人の目をすごく気にしていたんだと思う。俺も40歳の頃はそうだった。でもそれじゃあ、なかなか面白いことはできないんですよね……と、今は思います」

 みうらにも「他人の目」が気になる時期があったのだ。

 「バンドをやっていた時期でもあるし、他人の目を意識するっていうことを、ちょっと履き違えてたのかなあ。自分がどう見えるかっていうことばっかり考えていていましたから。本当は『自分のやること』がどう見られるかということに重点を置かないと、それ以降の仕事がうまくいかなくなる時期だと思うんですよ。
 『カスハガの世界』をやっていた時、糸井(重里)さんに『お前は本当の読者の怖さを知らない』って言われたんです。僕は自分の世界にずっと居るだけで、単に違和感を持ち込んで変なことをしたと思っただけだった。でもメジャー誌で作品を載せるというのは、賛も否もあってこそというか、今思うと世間は『やること』を見て判断するぞ、ということなんですよね」

 見られるのは「自分」ではなく、あくまで「やること」。プレッシャーを感じると同時に解放された気分にもなってくる。

 「そこから今度は“自分なくし”っていうキーワードを考えたんですよ。図らずも仏教の真髄と同じだったんですけど(笑)。面白いのは見つけた僕じゃなくて、カスハガの方なんです。それをどう、うまく伝えるか、その時、自分の意見なんかはいりませんからね」

 

変な人じゃないから、変なことをやり続けている

 

 第1期が40歳前後だとすると、第2期はいつを指すのだろう? と聞くと「ははは」と笑って「まだ第1期が続いてるだけなのかもしれません」と言う。

 「漫画家デビューしたのは『ガロ』という雑誌。他誌と大きく違うのは原稿料が出ない……だからいまだにデビューした気がしてないんですよね。僕の風貌にはかなり“老いるショック”が来ているのに、気持ちだけはずっとデビュー前。今こうしてしゃべっていても『あの、モーニングで何かあればやらせてください』と言いたい気持ちがある。さすがに老眼で漫画を描くのはつらいんですけど、まだ変なことができるような気もするんですよ」

 “老いるショック”という言葉をさらりと入れ込むのを見ても、変なことをしなくなるはずがないとわかる。そして「いつも変なことをしている人」というその印象が、筆者がみうらを追い始めた90年代からずっと変わっていないことにあらためて驚きを覚える。

 「ああそれは……僕は、根が変な人じゃないからですよね。無駄な努力してこうなったタイプなんで。漫画『アイデン&ティティ』でも描きましたが、若い頃は不良でも優等生でもないニュートラルなところがコンプレックスで。今ひとつ飛び抜けていないから発想も面白くならない。
 でも、さっき言った“自分なくし”の概念を見つけて、変であることをそっちに委ねたんだと思いますね。変なものに対する憧れに似たものは、ずっとあるんですよ。僕には考えつかないような発想で作られているはずで。『絵ハガキセットの企画は通ったけど紹介したい絵ハガキの枚数足りないな……ま、いっか、最近新しくなった駅ビルの写真でも足しておこう』ぐらいのいい加減さで作っているから面白いんですよ。僕にはその発想が信じられないんです」

 確かにみうらは「変な人」ではなく、「ニュートラル」な人なのだなと、この記事を書きながらあらためて思う。録音を聞くと、2時間半の取材中ずっと、筆者も編集者も(時にはカメラマンも)みうらの話に文字通り爆笑している。だがみうら自身は、思っていた以上にゆっくりとした速度で、モーニングという掲載媒体に合った内容を選び、聞き手の理解度合を測りながら、でも止まることなく、面白いことを口にし続けていた。ただ変な人にはできるはずもない。

 「『ゆるキャラ』の概念を見つけたのも、『どうしてこんなものが生み出されるんだろう?』と思ったから。今みたいに企業が介入していないでしょうから、役場の1人か2人で決めたと思うんですよね。ま、僕がやってることとほぼ同じなんですけど(笑)。
 そのいい加減さが『ゆるい』っていう言葉になるんですけど、自分にはないものだからおかしく感じたんですよ。今はともすると僕自身もゆるい人のように言われてしまうんだけど、残念ながら、ゆるくないんですよ。ピンピンに、しんどいぐらい敏感に反応してしまうんですよ。
 最近ね、ゆるいものがあまり出てこないでしょう。カスハガもね、高度成長期にたくさん作られている。ゆるいものって、景気がよくて、みんなが浮かれて油断している時に発生するもんなんですよ。だから僕は、景気が回復することをただ待っているってことですね(笑)」

 

正当な漫画では人気は出ない! という自信があった

 

 みうらのマンガ家デビューは22歳、大学在学中と早い。2年後の24歳の時にはちばてつや賞ヤング部門・佳作に入っており、そのままマンガ家一本の道を選んでも不思議ではない。こんなふうに独自の表現に道を広げていったのはなぜなのだろう。

 「漫画家としては駄目だと思っていたんですよね、きっと。ちばてつや賞をいただいた頃は『もっと努力すれば、漫画家としていけるんじゃないか』と編集者も推してくれたんですけど、モーニングからお声がかかる頃には『俺は正当な漫画では人気は出ない!』っていう、何というか自信があったんですよ。そこを目指してるようじゃ“カスハガ”は見つけられなかったと思います」

 ただ漫画家としては92年に、先ほど話に出た『アイデン&ティティ』を発表し、多くの熱狂的な支持を得ている。ミュージシャンを主人公にした、抒情的で正統派ともいえる自伝的ストーリー漫画だ。それは漫画家としての自信にはなっていないのだろうか。

 「うーん、その漫画を描く以前は“ホワッツマイケル富岡”っていうちょっと内臓がはみ出たカエルのキャラクターが主人公のバカ漫画でしたから(笑)。逆に、まともな作品を描いてマイナー誌にぶつけたら面白いんじゃないかと作戦を変更したんだと思いますね。逆に誌面で浮いてる方がいいんじゃないかと。モーニングでやったことと逆ですよね」

 肩書はずっと「イラストレーターなど」だ。

 「『カスハガの世界』って漫画も、漫画家も、そもそも『ない』でしょ? だから僕の仕事のほとんどは『など』のほうなんです。『など業』なの。それじゃあ趣味の延長だって言われがちですけど、お金をもらっているから、どう考えても仕事なんですよ。そのことを本にしてみようと『ない仕事の作り方』っていう本を出しました」

 みうらが「など業」=「ない仕事」を自ら作りだしたノウハウのようなものが、代表的な仕事と絡めながら系統だって語られていく本だ。
 そしてやはり「どこでやるか」の話になる。

 「ビジネス書のような、役に立つ本しか売れないような時代でしょ? そこに役に立たない本が紛れ込んでいたら面白いなと思ったんですよね。それで体裁もビジネス書みたいにして出したんです。するとね、まんまとビジネス書のコーナーに置かれた。役に立つと思われたんでしょう。昨年、本屋大賞の『発掘部門/超発掘本!』という賞を頂きました。だから体裁は否定的な意味じゃなくて、大事なんですよね。以来、体裁と違和感を忘れないように本を作ってるつもりなんですが……それを忘れて売れない本もちゃんといっぱい出してるわけですけど(笑)」

 

“ケンイ・コスギ”になっていないか?

 

 これまで出した本は170冊を超える。だが本にまとまらなかったり、企画が通らなかったりするものも多く、今もその企画はみうらの中で生き続けているのだという。

 「今後の僕の営業にかかっていると思うんですよ。一度ボツになっても、しつこく手を変え品を変えてやっていくのが肝心ですよね。ゆるキャラの時がまさしくそうでした。その概念の元は特産物の精霊、八百万の神だということだったんです。当然、八百万いるわけだから、週刊誌の連載じゃないとダメなんですよ。すぐ持ち込みに行ったけど……」

 そこでみうらの「『など』の部分が働いて」、イベントをしようと思いつく。「一堂に会せば、その異様さに気がつくはずだと」。

 こうして第1回『みうらじゅんのゆるキャラショー』が開催される。

 「後楽園ゆうえんちの、戦隊ヒーローショーをやる場所がいいかと。野外でね、その日は雨が降ってたんだけど、やっぱり嗅ぎつける人が『いる』わけで、満員でした(笑)。そこで『イベントをした』っていう事実をまず作って、知り合いの編集者に雑誌の記事にしてもらいました。そうしたら音沙汰のなかった人から『うちで連載したい』って電話がかかってきました」

 「どこでやるか」は「どの雑誌でやるか」を飛び越えて「後楽園ゆうえんちでやる」でも当然いいのだ。

 「それをより面白く見せられる場所を選んで動きまわればいい。など業は、自由ですから。1人電通としては、一度プレゼンに落ちたとしても、違う方向からしつこくやるのはすごく大事なことです。基本的に、ない仕事は持ち込みです。あっちから急に『ちょっとゴムヘビで連載して欲しいんですけど』って言われるわけがない(笑)。ゴムヘビは今のところ違うものを104種は捕獲したんですけどね……雑誌には無理やり載せたけど、僕の最終的目標『ゴムヘビ原色図鑑』はまだ出せてません」

 みうらの話には、自らの手も足も動かし続けている人ならではの裏付けと説得力がある。『アウトドア般若心経』では、約5年かけて般若心経に登場する400文字以上を街の看板の中に探し出し、写真に収めた。

 「貸し駐車場の『空あり』の看板を見て『これは仏教の教え“色即是空”の空』だと自分を洗脳してね。これは最終的に般若心経全文字を街の看板で見つけ『アウトドア般若心経』という本を出しました」

 だが最近、ある危機感を覚えてもいるという。

 「前よりは企画が通りやすくなったのはあるんですよね……それを僕は驕った立場“ケンイ・コスギ”(権威・濃すぎ)と考えたわけです」

 企画が通りやすくなるのは、ただ正当に評価されているだけのことではないだろうか。「どう面白がるか」という視点そのものをみうらにもらい、血肉としてきた人間はごまんといるはずで、同行した編集者も筆者も、その1人だ。

 「いやいや。そもそも『ある仕事』の人に『ケンイ・コスギ』が発生するのはわかりますよ。でも、『ない仕事』にそれはあるはずない。引き継ぐ者がいない限り、権威なんて生まれるわけないんだから。『バカだな、こいつ』と思ってもらうことが僕の仕事で、バカなことをやるのに、『ケンイ・コスギ』は一番の敵なんですよ」

 今みうらが取り組んでいるのは、見た目を実年齢より上に見せる“老け作り”だ。確かに今日のみうらは、白いものがまじった長いヒゲを、不自然なほどたっぷりと蓄えており、マスクを外した瞬間、あれ? と思わされた。

 「年をとっての若作りはフツーじゃないですか。でもね、老け作りは、年齢を聞かれた時に『意外と若いですね』って言われるご褒美が待ってるんですよ。だからモーニングで次にやるなら『ここまで老け作りしました』っていう読者の写真を紹介し、僕がジャッジをする企画がいいですね。

 あ、あと万が一モーニングに誰かから『「シン・カスハガの世界」をやらせてほしい』っていう依頼がきたら、それは初めてない仕事にケンイ・コスギが発生します。パクリじゃだめなんです、僕にお伺いを立てに来るやつが現れた時にようやく伝統が生まれる。その時、『僕より面白くすることができるのか?』っていう初めての感情が生まれるかもしれないですね(笑)」

 

ない仕事は基本、いつもアウェーですから

 

 取材の最後になって、編集者がみうらを好きになったきっかけの深夜テレビ番組『ラジオDEごめん』の話を始めると「まじですか? あれを観てたんですか?」と声がさらに明るくなる。みうらが30代前半の頃にMCを務めた番組だという。

 「スタジオ代わりに借りてた焼肉屋の営業が終わってから始まるという、中京テレビの生放送でね。東京の飲み屋からそのままゲストを名古屋に連れて行ってたこともよくありましたね」

 言い方は難しいんですが、と前置きしつつ「変な人のショーケースのようでした」という編集者に「ジャガーさんもお連れしましたしね(笑)。当時は猛獣使いみたいな仕事だと考えてたんだと思います」と裏話もまじえて、しばらく盛り上がった。

 「あの時は、僕のような『雑誌タレ』(雑誌タレント)がテレビに殴り込みをかけてる気でいたんだと思います。だから実は、恥ずかしいほど一生懸命だったんですよね」

 編集者が「やっぱり仕事のスタンスはずっと変わらないですね」と言う。

 「うん、すごく懐かしい話だったけど、しゃべってみると確かにあんまりその時と気持ちが変わってないかも。その都度その都度、『ない仕事』を考えつくしかなかったんだと思う。司会を頼まれても、進行なんてやる気ないし。でもどうにかしなきゃなんないわけだから。発想の元はいつも、置かれた状況にあるかもしれないですね。ない仕事は基本、いつもアウェーですから(笑)」

 この後、「雑誌の読者層について」話が及ぶと、「年配者が懐かしい話をしゃべりたくてしょうがなくなる」現象と絡めて「モーニングでやったらどうですか?」と企画を提案された。笑い話として語りつつ、記事の出だしの文言、タイトル案、「でもこうなるのは違う」という細部までが短い間にどんどん出てきて、まさに「ない仕事の作り方」の一端を、見せてもらった気持ちになる。

 翌日、編集者から「みうらさんの話を反芻していて思いつきました」とタイトル案が届く。ばかばかしくもかわいらしい案だった。

 

(了)

 

みうらじゅん JUN MIURA


1958年京都府生まれ。イラストレーターなど。80年漫画家デビュー。以降、様々な仕事を手掛ける。考案した「マイブーム」が97年に新語・流行語大賞受賞。著書は170冊以上。近著に『マイ修行映画』『永いおあずけ』がある。

 

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