40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【宇多丸(ライムスター)】

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第2回はヒップホップ・グループ、ライムスターの宇多丸が登場。ラジオパーソナリティとしても広く知られ、自らを「多角的」だと言う彼の40歳とは? 悩める読者に真剣に寄り添う、その姿勢にも注目を。

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第2回はヒップホップ・グループ、ライムスターの宇多丸が登場。ラジオパーソナリティとしても広く知られ、自らを「多角的」だと言う彼の40歳とは? 悩める読者に真剣に寄り添う、その姿勢にも注目を。
(取材・文:門倉紫麻 写真:講談社写真部/浜村達也)

※この記事はモーニング29号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

俺を見てほしい!というエゴが消えた

 

 本企画「40’sランドスケープ」に登場するのは、基本的に、モーニングの編集部員が話を聞きたいと挙げた人たちだ。宇多丸の名前は複数の編集者から挙がっていたこと、その中で以前からのファンである編集者が記事を担当することになり同席していると告げると「光栄です」と笑顔を見せた後、こう続けた。

 「お話をいただいた時、僕の人生が普通のルートだとは言えないので参考になるかな? とは思ったんですよね。でも確かに40歳前後が大きな転機ではあったので……それなら話せることがあるかもしれない、と」

 この企画に真剣に臨んでくれたことが、取材開始早々伝わってくる。1989年、20歳の時にヒップホップ・グループ「ライムスター」を結成。20代は、まだ認知度が低かった「日本語ラップを軌道に乗せる」ことに腐心してきたが、30代で変化が訪れる。

 「もちろんライムスターの活動をずっと続けていましたが、30代でもともと僕の中にあったサブカルチャー的な資質を本格的に自分の大きな軸にし始めた。『BUBKA』のアイドルソング連載を始めるとか、ロフトプラスワンでトークイベントをやるとか。そこでまいた種が、40歳前後から実を結ぶようになります。自分のラジオ番組(『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』通称:タマフル)が始まったのが38歳です」

 『タマフル』開始の直前にライムスターのグループとしての活動は一旦休止。2年を経て再開したのが「ジャスト40歳。そこからアーティスト活動の第2期も始まっています」。活動休止前と後では大きな変化があったという。

 「それまでは、俺のやりたいことを理解してほしい! 俺を見てほしい! というエゴが強くあったんですが、それが消えた。グループとして集まっているんだからグループとして何ができるかを優先させるべきだと思うようになりました」

 なぜそう考えるようになったのだろう。

 「やっぱりラジオを始められたのは大きかったと思います。僕個人の何かを発散するホームグラウンドができて、グループとしては、良いもの面白いものを作ることのほうが重要だと思い至った。2年間一人で活動をする中で、自分だけではできないことが見えてきたし、メンバーが助けてくれていたんだなとわかるようにもなって。ほかのメンバーもそうだったと思う。
 クリエイティブの面でも、以前は自分が書いた歌詞の修正を求められたら、『えっ? 俺はこれがやりたいんだけど』みたいな反応をしていたんですけど、『客観的に見たらそうか』と何を言われてるのかをよく考えて、自分なりの修正案を出すようになった。それまではガキだったんだと思います(笑)。ただ40歳になって急にそういう自分が浮上してきたわけではなくて、30代を通して自分が本当にやりたいことはこれじゃないんだ! みたいなもがき……第2反抗期があったからそう思えるようになった。1つたりとも無駄なプロセスはなかったです」

 

斜に構えず、ストレートな歌詞を

 

 グループ活動再開後の1曲目、40歳で出した『ONCE AGAIN』は清々しくストレートで、聴いていて鼓舞されるような曲だ。
〈気分はヤケにトウが立ったルーキーズ 午前零時 新しい日の空気〉
〈風はまた吹く 気付かないならかざしな人差し指を/陽はまた昇るゆっくりと 決して立てるな己にその中指を〉

 「おっしゃる通り、それまでの僕らの曲と比べると、ぎょっとするぐらいストレートな歌詞なんですよね。そのビジョンはメンバーで共有していました。今回は皮肉とか斜に構えた感じとかはやめて、ストレートに伝えようと。トータルではヒップホップを示していても、ヒップホップ用語を使わず普通の言葉で書く、というのもそうです。自分のバースに関しても、休んでいる間に歌詞をどの方向に進化させようかなと考えて……ユーミンさんとか阿久悠さんとかストーリーテリングがすごくうまい先達たちのテクニックとか構造を取り入れたりもしました。
 あと以前はメンバーそれぞれが自分の意見を譲らないような、船頭が多い状態だったんですが、Mummy-Dをトップディレクターに立てて船頭を1人にした。それでさっき言ったみたいに、自分の歌詞に手を入れることもできるようになりました。クリエイティブ的に、メンバーともすごくいいキャッチボールができましたね」

 サウンド面では、初めてメンバー以外のプロデューサーを入れた。

 「ヒップホップのサウンドがすごく進化していたので、うちらだけでやりくりしていたら限界がくるよね、と。それで最新の音楽を作っているプロデューサー、BL(BACHLOGIC)くんにお願いをして。これまでの僕らにはないハイファイなものができました。そんなふうに、直感やエゴじゃなくて、ビジョンを持って、客観的に作ったのが『ONCE AGAIN』でした。受け入れられるかどうかは……全くわからなかったんですけど」

 実際の反応は?

 「最初は否定的な反応も結構ありました。でも今となっては『出して正解』というのが歴史的事実というか。ライブのキラーチューン、武器が増えましたね。2年も休んでいたのに、各フェスティバルにも呼んでもらえて……みなさんの助けがあってうまく再スタートを切れた」

 もともと、38歳の時に活動を休止することになったのはなぜだったのだろう。

 「活動休止前に出したアルバムでめちゃくちゃたくさん曲を作ったんですよ。そこでお互いのエゴのぶつかり合いがあって。みんなピリピリしていたなあと、今になって思います。通常のグループだったら、あのままのペースでアルバムを作ってツアーに出る、というサイクルの活動を続けてしまって、というか続けざるを得なくて、バン! と破裂したりするんでしょうけど、幸か不幸か僕たちは死ぬほど腰が重い(笑)。どんなにケツをたたかれようが、やらない時はやらない。だから『活動休止します』みたいな超わがままも許してもらえた。何となく、みんなの中に『だよね』っていう感じがあったのかなと思います」

 長年一緒にやってきて同じ方向を見ているからこそ、同じタイミングでピリピリもするし、同じく休んだほうがいいと思えた、ともいえるだろう。

 「そうそう。同じく限界を感じていたという意味では、同じ方向を見ているわけだし。基本的に、仲がいいんですよ。だから僕、後輩とかに『活動休止するんです』と言われたら『いいんじゃない?』って言うようにしていて。仲が悪い、まで行く前に距離を置く。それでありがたみがわかって、もう一回やろうよってなるなら、それがグループじゃん? って。グループに限らず、夫婦とかパートナーシップも、無理やり一緒にいればいいというものじゃないかもしれないですね。しばらく距離を置いたらすごくラブラブになるかもしれない(笑)。ラブラブとは言わないまでもお互いの立ち位置みたいなものはわかると思う。細く長く続けるには、外からいったん見てみることは大事かもしれません」

 活動再開の翌年にはアルバム『マニフェスト』を発表。発売日のオリコンデイリーランキングで3位を獲得するなど多くのファンから支持を得た。

 「今までは1枚アルバムを作ったらすごく疲れていたんですけど、みんな『なんか、余力あるよね?』という感じで、曲のストックまでできて盛り上がって。その翌年に東日本大震災が起きて計画していた通りにはいかなくなるんですが、そういうことが起きた時にアーティストとしてどう向き合うかということも考えることができた。40歳前後は、本当にいろんなことがありましたね。結婚したのは41歳だし、ちょうど40歳には声帯ポリープの手術をやる羽目にもなりました」

 

やりたいことは、大声で言い回る

 

 学生時代に結成したグループで日本語ラップの世界を開拓し、確立させ、グループ活動休止を決め、ラジオ番組を始め、再びグループ活動を始め……と常に自分たちで考え、進む道を決めてきたように見える。

 「いやあ、そんなに道を切り拓くみたいなタイプでもないんですよ。むしろ自然な流れに身を任せているうちに決まっていった。ライフプランも一度も立てたことがないです。でもさっきも言ったように、無駄なことはなかったというか、自分がやりたいこと、その時に興味が向いたことには探り探りでも全力を尽くしてはきたなと。それを続けていると、しかるべき何かにつながって仕事の依頼がきたりするようになるのかなと思います。
 『タマフル』も、ラジオの仕事は大好きでやりたくはあったんですけど、自分で立ち上げます! と言ったわけではなかったですしね。平日昼間の帯のラジオ番組(『小島慶子 キラ☆キラ』)に出演を依頼された時も、最初は自分にできるんだろうか? と思いました。20年前の自分だったら力量的にも無理だったと思うし、『めんどくせえからイヤだ』とか言っていたと思う(笑)。でもその時は、『タマフル』を一生懸命やってきた俺を見た上で、天下のTBSが依頼してきたということは、俺がやれると思ったんですよね? と思ってやることにしました。投げやりになっているわけじゃなくて、声を掛けてくれた人を信用する、ということです」

 同席している、自身はライムスターの音楽から宇多丸のファンになったという編集者が「宇多丸さんのことを多くの人が認知したのは『ザ・シネマハスラー』が大きかったと思っていて。その頃から編集者の間でも宇多丸さんの名前をよく聞くようになりました」と言うと「そうなんだよ」と応じる。「ザ・シネマハスラー」は、『タマフル』の映画評論コーナー。正直で的確、熱のある語り口がリスナーの信頼を集め、筆者のように〝映画評の人〟として宇多丸を知った人も多いだろう。

 「映画評論を始めたのも40代の巨大な出来事でしたね。ずっと映画は好きだったし、ああだこうだ言ったり文章に書いたりもしていたんですけど……対外的なメインコンテンツになるとは思わなかった。映画評論はずっと避けてきたんですよ。評論界における『フリースタイルダンジョン』じゃないけど(笑)、一番注目度が高くて、一番競争が激しくて、一番観客のジャッジが厳しいコンテンツ。歴史もあって、スーパーヘビー級ボクサーの映画評論家がいっぱいいる中に、アマチュアの僕が立たされるみたいな。でもそれも、僕が映画を好きなことを知ってくれていた人が声をかけてくれたわけで……。自分の思ってない角度で評価してくれる人がいたら、やっぱりそれは無碍にしないほうがいいのかなと思います。
 受験みたいに、こういう努力をすればここに到達するというものでもないんですよね。好きなことをやっていると意外なところにつながったりするから、やりたいこととか好きなことがあったら、それは大声で言い回ったほうがいいし、やり続けるといいと思う。何にもつながらないかもしれないけど、生活における好きなこととかやりたいことの比率が増えていくでしょう。そうすると、少なくとも人生はそっちに寄っていく。何も表に出さないと、『社会』というもののほうが圧倒的だから、そこに合わせることになってしまう。ちょっと自分で船の帆を向ける、ぐらいのことはしておくといいかなと思います」

 ラッパーではなく“映画評論の宇多丸”“ラジオの宇多丸”のファンが増えていくことへのジレンマのようなものはなかったのだろうか。

 「いやいや。宇多丸がやっているからヒップホップを、ライムスターを聴いたという人もたくさん出てきて、フィードバックがありました。それは自分の役目だとも思っていたので。逆のほうが難しかった気がしますね……ライムスター・宇多丸のファンなのに、俺が出るアイドル関連のイベントとか、俺の非ラップ的な活動のほうに興味持たな過ぎだろう、このやろう! みたいなことはありました(笑)。でもそれも、ラジオを始める前までかな。僕の中にある多角的なものを全部知っている人は、ラジオを始める前はほとんどいなかったと思います。
 僕は曲を出す時でも、音楽だけじゃない部分……例えばアートワークとかミュージックビデオとかプロモーションとかも含めて、全てを面白いと思うんですよね。ラジオもいろんな要素が総合的に入っているものが面白いと思うし、自分のラジオ番組での立ち位置は『雑誌の編集長』だと言っていて。いろんなものが関わって、いろんな人が出入りして、トータルでその世界ができている……そういうものが好きなんです」

 話を聞くまで、宇多丸の軸足はあくまでもラッパーとしての自分にあって、そこからラジオなどのいわば文化人としての活動が派生しているものだと勝手に思っていた。そう伝えると「僕の中では一直線というか、全部同じといえば同じなんです」。

 「ただ、ラップをやっている瞬間が一番かっこいいとは言われます。そういうエンターテイメントとしてかっこよく見せているわけだから、それはそうだろうって思うんですけど(笑)。ラップをやるだけでも成功はしていたし、そこに専念する良さもあったでしょうけど、俺が見ている世界はもっと面白いんだけどな、みたいな気持ちは最初からありました。ラップやって、文章書いて、ラジオもやって……そもそもヒップホップ専門誌の連載でもずっと、アイドルのことや、映画評もマンガ評も書いてきたので。そういう意味で一貫していると思います」

 今回同席している編集者とは逆の、まさに「宇多丸がやっているからライムスターを聴いた」編集者とも事前に話す機会があった。彼は「文化人」としての宇多丸と出会った後に「音楽のプロ」としての顔を知ったと言い、どちらもある人生は幸せに見えます、と語っていた。

 「なるほど……おっしゃることはわかる気がしますし、幸せなのかもしれませんね。これも僕、いろんな人にアドバイスとして言うんですけど、こういう自分もいるしこういう自分もいる、というチャンネルはいっぱい持っておいたほうがいいよ、と。そうすると、あるチャンネルで行き詰まったり嫌なことがあったりしても、今はこっちのチャンネルのことをやればいいやと思える。僕もいわゆる文化系的な活動で息がつまるようなことがあってもライブで超発散できるし、ヒップホップの粗野な世界にずっといて脳みそが溶けてくると(笑)、ラジオがやりたくなったりする。両面、というか多面があるのは、僕にとっては大事なことですね。
 もっと言えば今、こうやってべらべらしゃべってますけど、プライベートではほとんどしゃべらないし、すごくおとなしい(笑)。皆さん、そうだと思うんです。人にはいろんな面があるわけだから。仕事に限らず趣味でもいいので、そのいろんな面を自然に出せる場をいっぱい作っておくほうが楽じゃね? ということです」

ライムスターのライブでは、ラップでもMCでも ファンを熱狂させる。

 

40歳で「俺は大人になったんだ」と思った

 

 2020年、51歳の年に発表したスチャダラパーとのコラボ曲のタイトルは『Forever Young』。歌詞にはこうある。
〈決めんな限度 保てんだ鮮度〉
〈まだイケる まだまだイケる〉
いろいろなことがあった40代を経て、50代になった今が、一番いい状態のように見える。

 「ほかの方が僕を見てどう感じているかはわからないですが……自分では幸いにも、常に今が一番いい状態で来ていますね。仕事が順調だという、恵まれた環境にいることも大きいと思うんですが」

 そう言った後に「でも若い時はつらかったなって思うんだよな……」と続ける。

 「年を取ると1日が短くなるって言いますけど、子ども時代とか思春期とか、若くて1日が長かった時、僕は結構つらかったんですよね。いじめられていたとかそういうことじゃなくて、生きているのがしんどいというか。体がむくむく育って、いろんな経験をわあっとして……それはすごく尊いことなんだけど、常に急激に起こる変化をどうコントロールしていいかがわからないし、社会的には無力で。道を歩いていても、なんか、ただただきつかったよなって」

 編集者が「すごくわかる気がします」とぽつりと言う。

 「そう。若いってしんどいことだったでしょう? って思う。だから映画とか音楽とか今以上にエンタメを逃避として頼ってるところがあったんだと思います」

 その「若くてしんどい」時代は、何歳ぐらいまでをイメージしているのだろう。

 「40歳ぐらいまでかなあ。しんどくなくなったのは、エゴとか自我のコントロールがようやくできるようになった40代からなので。その時に『俺、大人になったんだ』って思ったのかもしれないですね。もちろん感情は湧いてきてしまうものだから完全にコントロールできるようになったとは言えないですけど、その感情をどう表出させるかというところでは、まあセーフかなと思えるようになった。酒の飲み方も、ようやくゲロ吐くまで飲むことはない、ということがわかってきたり(笑)。40歳からがいよいよ楽しいと僕は思います」

 では今、40歳を前にまだしんどい只中にいる人に、何か映画を薦めるとしたら?

 「うわー! 役立つものは本当に人それぞれなので何とも言えないんですけど……」

 映画評論を専門としている人に軽く聞いていいことではなかったと反省していると「でも雑誌とかで先輩方が『それぞれ自分で傷付いて学ぶしかないのだから』と言っているのを読むにつけ、正論だろうけど参考にならねえ! と思っていたから……何とか答えてあげたい」と真剣に考え始める。

 「コメディーで僕がよくおすすめするのは『ロミーとミッシェルの場合』っていう30代の女性2人が主人公の映画なんですけど。高校の同窓会に、当時の同級生を見返してやりましょうと出かけていく。その珍道中が、自分たちではいけてない青春だと思っていたけど他の人たちから見れば……という自己肯定につながる話になっていく。基本くだらないギャグ満載の映画なのに、感動させられる。同じく同窓会に行く話の超苦い版として『ヤング≒アダルト』もセットですすめるんですけど……ただ、僕の映画の本でも全く同じセットですすめてるんですよね。何かもっと適切なのがある気がするんです」

 しばし熟考した後「ちゃんとした大人になれていないとか、人生設計を立てられていないことに心配になっている人もきっといますよね。世の中が変わっていくわけだから、立てられなくて当たり前なんですけど」と言い「『葛城事件』という地獄のような映画があってですね……」と語り出す。

 「父親は、家を買って一国一城の主となり、息子2人を育て上げた、みたいな昔ながらの日本の大人の男像を体現していて。俺の何が悪いんだ! って思っているんだけど、その態度そのものが有害な父権の塊のようなもので、最後には破滅が待っている。大人の男像にしがみつくことがいかにむなしいかがわかるし、人生設計通りに進んでもそれが幸せのゴールとは限らない、と思える。大傑作ですが、観ると具合が悪くなるぐらいきつい作品なので、よっぽど体力がある時に(笑)」

放送中のTBSラジオ「アフター6ジャンクション」でも映画評論コーナーは継続中。

 

いくつになっても好きなものがあること自体が、かっこいい

 

 ここでいったん取材が終わり写真撮影に移るが「いやあ……『葛城事件』じゃいくら何でもあれかなと思うんですよね。もっと元気が出るようなものをもう1つ挙げたい」とまだ考え続けている。映画評論のプロとしての矜持を感じさせると共に、今苦しんでいる人の役に立ちたい、気持ちを楽にしたいという思いが(取材を通してずっと)溢れ出る。

 「具体的なおすすめ作品の話ではないんですが、高齢になってもどんどん映画を撮っている監督がたくさんいて。リドリー・スコットもスピルバーグも、イーストウッドもまだ撮っている。彼らを見ていると自分はまだ若造なんだなと思えるんですよ。高齢だから鈍る、みたいなことはあんまりないんだなと思う。さっき話に出た『Forever Young』でも〈年齢はただの数字に過ぎない〉と言っていますしね。変わらず楽しくやればいいんじゃないかなあ。この歳になったから諦める、みたいな時代でもないでしょうし」

 なるほどと思っていると「ただここでちょっと気をつけなきゃいけないのは」とドキリとすることを付け加える。

 「頑張って若い人についていこう、と思ってしまうことです。その発想がすごい年寄りくさいんですよ。若い人が好きなものを好きになるんじゃなくて、年寄くさいと思われるようなものでも、自分が好きならそれを追求すればいい。いくつになっても好きなものがあること自体がかっこいいんですよね。若さとか若く見えるかどうかを追求し始めたらダサくなる。若い人は若いことが一番の武器だから、年上の人間に対してその武器を全面的に使ってくるだけ。だからそういう若いやつも──若いやつを盾にしてくるうざい年寄りも、恐るるに足らず、です!」

 最後に力強い言葉を聞いて、最高ですねと編集者に言うと、「最高です。元気が出ました」と笑っている。それを見て宇多丸も照れたように「へへへ」と声に出して笑い、「お役に立てたなら嬉しいです」と言葉通り嬉しそうに言った。

 

(了)

 

宇多丸 UTAMARU

 

1969年東京都生まれ。1989年ヒップホップ・グループ、ライムスターを結成(ほかのメンバーはMummy-D、DJ JIN)。TBSラジオ「アフター6ジャンクション」パーソナリティ。今年5月シングル「世界、西原商会の世界! Part 2 逆featuring CRAZY KEN BAND」をリリース。

 

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