40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【弘兼憲史】

モーニングは、今年で創刊40周年! 人間でいうと40歳。若い頃とは違う迷いも、新たな楽しみも生まれる年頃だ。各界の著名人が、そんな40歳の自分を振り返るシリーズがスタート。第1回は「もう一人の自分」島耕作の人生を描き続ける弘兼憲史が登場!

モーニングは、今年で創刊40周年! 人間でいうと40歳。若い頃とは違う迷いも、新たな楽しみも生まれる年頃だ。各界の著名人が、そんな40歳の自分を振り返るシリーズがスタート。第1回は「もう一人の自分」島耕作の人生を描き続ける弘兼憲史が登場!
(取材・文:門倉紫麻、写真:講談社写真部/柏原力)

※この記事はモーニング28号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

よく仕事して、よく遊んだ

 

 40歳の弘兼憲史は、多忙を極めていた。

 「今回、自分が40歳の時に何をやっていたかを調べてみたら、連載を3つやっていたんですよね。『ハロー張りネズミ』(講談社)と『課長 島耕作』と原作つきの『人間交差点』(小学館)。『赤い芝生』(小学館)っていうゴルフ漫画もビッグコミックオリジナルの増刊号で描いていて……そういうのも含めると5つくらいかな。1ヵ月150ページぐらい描いていました」

 35歳の時にスタートした『課長 島耕作』は連載5年目。人気も増し、自身も「面白い」と自信を持って描いていた。

 「『島耕作』も『ハロー張りネズミ』もノリノリで描いていましたね。連載を2つやっていたのは、1つだけだと時間が余るから。仕事は思い切りやって、遊ぶ時は寝る時間を惜しんで命がけで遊ぶ。ちょうどバブルの頃でしたから、仕事を仕上げたら銀座でハシゴすることもありました。誘われたら断らなかった(笑)。編集者と一緒にハワイに行ったりもしていたし、派手な時期でしたよね」

 ハードな毎日は、弘兼にとっては楽しいものだった。

 「25歳で会社を辞める時に、どういう人生がいいかなと考えたら『次から次に仕事をこなさなきゃいけなくて寝る暇がない』自分が浮かんだ。漫画家になって最初の5年ぐらいは、連載が持ててもいつ終わるかわからないと思っていたんです。次からは要りませんと言われたら、それで終わり。漫画家はそういう人生ですからね。だから徹夜で仕事をするほど忙しくなったことを嬉しいなあと思っていました。好きな仕事だからそう思えたんでしょうね。これが例えば官僚になっていて、朝の4時まで予算の資料を作って睡眠2時間でまた官庁に戻る、とかだったら僕には辛いですけれど(笑)。よく仕事して、よく遊んだ。それが40歳の僕です」

 プライベートでは、32歳で結婚。40歳の時には二児の父親でもあった。

 「上の子が小学生になるぐらいだったかなあ。毎日締め切りに追われていて、気がついたら子どもが中学生になっていた感じですよね。かみさんからはいつも『もうちょっと子育てに関心を持って』と言われていましたね……。一応塾の送り迎えもやったし、お弁当のおかずも作ってはいたんですよ。僕が徹夜で仕事をして出てくると子供たちが朝食をとっているから、一緒に食べながらお弁当のおかずを作る。僕は寝る前なので〝晩酌〟もするんですよ。そうすると、子供が作文に『お父さんは毎朝お酒を飲みます』って書く(笑)。どんな家庭だ! って思われちゃいますよね」

 そういえば、島も子育てにはほとんど参加していなかった。

 「構ってほしがる娘に、『かまっておんど』を歌われたりしていましたよね。あれはつかこうへいさんの歌詞なんだけど、うちの子どもも歌ってましたね。僕に構ってほしいからじゃなくて歌が面白いから歌ってただけみたいだけど(笑)」

 子どもたちは、父としての弘兼をどう見てきたのだろう。

 「息子は今漫画の世界に入って、娘もゲームのキャラクターデザイナーなので似たような職業をやっていて。両親とも漫画家(妻は柴門ふみ)というのは、重しとなっていたとは思います。自分で言うのもなんですが、ある程度有名な〝偉大な両親〟みたいなものではあったわけで……それはちょっと気の毒だったなと」

 自分と近い業界を子供たちが志したのは嬉しかったのでは?

 「うーん……やりたいならやったらいいんじゃないか、とは思いますが、大変な世界なので決して勧められはしないですよね。息子が漫画家を目指していたことは、デビューしてから知りました。親の仕事を子どももやるというのは、やっぱり環境が大きい。親が描いているところを見て『こうすれば漫画家になれるんだな』と思っていたんじゃないですかね。娘が絵がうまいのは知っていたんですが『漫画家はお父さんたちを見ていて大変だと思ったから、ゲーム会社に入る』と言っていました(笑)」

 

2つの人生を歩いている

 

 弘兼は漫画家になる前、25歳まで松下電器産業(現・パナソニック)の社員として働いていた。島耕作が勤める会社の業種はもちろん、年齢も出身大学も、自分と同じに設定している。

 「島耕作は、定年まで電機メーカーに勤めていた、もう1人の自分ですね。2つの人生を歩いている感じです。同期の連中にはしょっちゅう『最近はどうだ?』と取材していましたし、社長が変わったら会いに行ったりもして。時代がどんどん変わっていくので、最近はこうなっているという情報はビビッドに入れていました。海外の工場に行って、新しい商品を見たりもした。だから自分もずっと、松下電器の社員のような感覚があります」

 40歳の島は、やはり弘兼と同じく「脂が乗ってくる頃」だった。36歳で課長になり、ニューヨークへの転勤、本社勤務などを経て、40歳の時には京都に赴任していた。

 「ああ、京都でしたね。京都といえば祇園ですから……銀座から祇園に移ったわけですね。島耕作は二大歓楽地に行ってる(笑)。楽しいサラリーマン生活を送っている様子を描きました。苦労することがあっても、根本的には仕事を楽しむ、人生を楽しむのが島耕作です。僕がそうですから」

京都へ赴任したばかりの島。(『課長 島耕作』STEP33より)

 

 〈作品の隅々に得体の知れない元気さを感じてしまう〉。『課長 島耕作』の文庫版には、あらためて本作を読み直した弘兼の、こんなコメントが掲載されている。確かに作品全体から、この時代特有のパワーが感じられる。40代に入り、「一匹狼」主義だった島の心境に変化が訪れる。「そろそろ主義を変えなければならない時期なのかもしれない、そういう年齢になったのか……」と、誰かにつくこと、派閥に入ることを考えるようになるのだ。

 「だんだんと、そういう人になっていきましたね。島耕作にはいわゆる漫画の主人公らしい破天荒さや強烈な個性はあまりないんですよ。リアルに出世する人間を描こうとすると、島のような非常にバランスの良いタイプになる。島は自分からガツガツ出世を望むのではなくて、わりと真面目に目の前の仕事をこなしているうちに周りから引き上げてもらえるタイプですね」

 周りから引き上げてもらい、いつの間にか出世している──理想的なサラリーマンと言えるが、現実世界でそのような良い人間関係を築くためにはどうすればいいのだろう。

 「好き嫌いを作らない……いやもちろん好き嫌いはあるんですけど、あんまり作らないようにすることかなあ。『こいつダメだな』と思ってしまうような相手でも『ここは良いところだな』と思えるところを見つけたら、付き合いやすくなりますよね。新入社員の頃、みんなからちょっと疎まれている上司がいたんですが、僕はその人の良いところを探して。『そこを勉強させてください』と自分から近づいていきました。そうしたら『いろいろ聞きにくるかわいいやつ』と思われて、カバン持ちみたいな形で料亭での打ち合わせに連れて行ってくれたりするようになった。もちろん末席にいるだけですけど、そういう経験をできたのは良かったですね」

 人に対してと同じように、仕事のことも「好きになる必要がある」と言う。

 「嫌になるようなことがあっても『俺はこの仕事が好きなんだ』『ほかにできることはない』と思い込むというか、自分に暗示をかけるというか(笑)。漫画家の場合もそうですよね。自分は漫画以外できないんだから、と思っていたほうがいい」

 弘兼自身も「漫画以外できない」と思っている、あるいはそう自分に暗示をかけてきたのだろうか。

 「僕は……他にも何かできるような気がする(笑)。サラリーマンとして会社に残っていても、そこそこいけたと思います。同期を見ていても、こいつは出世するなと思ったやつは出世していますから」と言いつつ「でも、漫画が一番面白いからね」と笑った。

 

こだわりがないからスランプがない

 

 20代前半という若さで、苦手な上司にただ反発することもせず、仕事をただ嫌だと思ったりすることもなく、着々と経験を積み重ねていた──弘兼が会社員としても優れていたことがじわりとわかってくる。

 「僕はいわゆる全共闘世代だから、周りには反体制的なことをヒロイックに感じる連中が多かったんですよ。会社の言うことなんか『ケッ!』みたいな。僕は学生運動はやらなかったし、反体制的なことは考えなかったですね。反発するところはするけど、逆らわなくていいところには逆らわず、怒られたら素直に反省する(笑)。もともとそんな考え方だし、今もそう。激流をさかのぼるような生き方はしてこなかったですね。流れに乗って人生を歩いてきた。気が付いたら結婚していて、家ができて、子供ができて……ただ自転車をこぎ続けているうちに周りの景色が動いていた。生命保険のパンフレットに載っているような人生設計も立てたことがない(笑)」

 漫画家になるために25歳で会社を辞めたことは、流れに乗って人生を歩いてきた弘兼にとって珍しい決断だったといえる。

 「反発、というわけでもなかったんですけどね。新しいことをやるぞ! という意欲は満々でした。終身雇用制の時代だったので、大きな会社に入ると将来はこれで安心という感じだったんですけど……多少レールを外れて脇道へ逸れるのも面白いんじゃないかと。子供の頃になりたいと思っていた漫画家になろうと決めて、会社を辞めました。会社の人たちからも『そうそう、そのほうが絶対いいよ』と言われましたね。もうちょっと誰か引き止めてくれてもいいのにと思ったんですけど(笑)。完全に円満退社です」

 松下電器の広告宣伝部でイラストも描いていた弘兼は、フリーランスでイラストの仕事を引き受けるようになる。約1年後に漫画家デビューするまでの間は、仕事の依頼が絶えなかったという。ここでも、弘兼の築いてきた人間関係がものを言った。

 「最初はちゃんと生活できるか、食えるか、収入があるか、めちゃくちゃ不安だったんですけど、広告宣伝部でお世話になっていたデザイン会社さんからいっぱい仕事がきました。当時はデザイン会社を〝下請け〟みたいに扱う人もいたんですけど、僕はそういうことは絶対しなかったし、むしろ一緒に遊んだりしていて仲が良かった。その時にできた人脈のおかげですね」

 漫画家デビュー後の活躍は、誰もが知るところだ。

 「逸れてみた脇道が結構面白くて。その狭い道をあっちゃこっちゃ行っているうちに、会社員を続けていた場合に行ける王道よりも、さらに上の道に行けたんですよね」

 大きな決断をしたわりに「何がなんでもヒット作家になって見せる!」と息巻いていたわけではないことが、弘兼の穏やかな口調から伝わってくる。

 「そういうのは全然なかったですね。僕は運がいいんですよ。70歳過ぎて、まだ連載を持っている漫画家も少ないと思うし。ついてますよね」

 あまりにもあっさりそう言うので、「運」だと思っていらっしゃるのですか? と前のめりで聞いてしまう。

 「実力もいるんでしょうけど……やっぱり運が大きいですよね」

 謙遜ではなく、弘兼は本当にそう思っているのだ。

 「僕の世代は4年制の大学への進学率が20%もなくて。そんな時に私立の大学に行けて、仕送りもしてもらって。そこでまずついているし、運よく自分の入りたい会社の入りたい部署にも行けて……まあこれはちょっと努力したんですけども(笑)、ついていたと思いますね。その後に希望していた漫画家でデビューもできて、連載を持って『島耕作』がヒットした。運がないとダメだったでしょうね」

 漫画家になってから、いわゆるスランプは? と聞くと「なかったです」と即答。

 「締め切りで、時間的に大変だったことはあるんですが……作品を描いていて『どうしようもない!』って悩んで原稿を破り捨てるようなことはなかった。もったいないからね(笑)。こんなことを言うのはあれかもしれないけれど、多少作品に不満があっても締め切りに間に合わないよりは、出したほうがいいかなと。浦沢直樹さんがやっている『浦沢直樹の漫勉』(NHK)という色んな漫画家の創作が見られる番組がありますよね。1コマにものすごい時間をかけたり、何度も描き直したりする人を見ると『そこも直すんだ……!』と驚く。こだわりを持って制作することは立派だと思うんですけど、僕はそういうものを持っていないんですよ。漫画は1枚の絵の芸術じゃなくて連続した1つの作品なので、ダメな回もあればいい回もあるとトータルで考えています。僕はそこにこだわる時間をほかのことに使いたいなと思うタイプ。だからそんなに作品のことで思い悩むことはしないですね。まあ、もともと何事にも思い悩むほうではないんです。大体のことは『まあ、いいか!』っていう一言で片づけます」

 確かに島も、落ち込むことはあっても、いつまでも悩みを引きずるタイプではない。

 「彼もそうですね。男性誌で特集されるような『男のこだわり』みたいなものにも興味はないですよ(笑)」

 

意識的に、漫画業界以外で人脈を作った

 

40歳の頃の弘兼。

 ビジネスの世界を描いた『島耕作』シリーズや政治の世界を描いた『加治隆介の議』など作品の注目度が上がるにつれ、弘兼の文化人としての活動が増えていく。政治・経済の分野でもコメントを求められるなど、漫画業界以外の活動も活発になった。それもまた「流れに乗って」のことなのだろうか。

 「いや、それは意識的に、ですね。会社員時代の仲間とか、ゴルフで知り合った全然違う分野の人たちを通じて、あえて漫画業界以外での人脈を作るようにした。作品を描く上でもそのほうがいいと思ったんです。漫画家とか編集者との交流はそんなに多くないと思いますね。漫画家仲間からは『あいつ付き合いが悪いな』と思われているかもしれないです(笑)」

 40歳の頃には、すでにそのスタンスだったという。クリエイターではない40歳の会社員だとしても、会社以外の人と交流を持ったほうがいいのだろうか。

 「絶対に持ったほうがいいです。愛社精神が強すぎると、会社を冷静に見ることができなくなるんですよ。だから会社の外側にいる人と付き合うんです。今、島耕作は塗装会社の社外取締役になりましたけど、社内にいる人にはできないことが社外ならできる。同じ釜の飯を食ってきた社内取締役同士では、いくら業績が悪くても、クビにすることはできないですからね」

 島耕作の新シリーズ『社外取締役 島耕作』第1回で島は、社内取締役同士は「戦友」であり「変な仲間意識や遠慮 忖度などが生まれて言いたいことがあっても言えないということになりますよね」と言っている。

 「同じ仲間でずっとつるむのは、いいこともあるけど悪いこともいっぱいある。僕は行きつけの店もあんまり作らないんですよ。そこの板さんと人間関係ができちゃうと『最近なかなか来ないね』と電話がきたりして行かなきゃいけなくなるので。つかず離れずがいいなと思う。同じ店に行き続けて、新しい刺激がなくなるのが嫌なんですよ。何かいい情報が入ったら、そのお店に行ってみるようにしています」

 新シリーズのことに話が及ぶと、明らかに弘兼の声が弾んだ。

 「しばらくビジネスの執行のほうを中心に描いてきたんですけど、今回は課長時代のような〝現場〟を描いていた頃に若干戻るのかなと。執行のほうは専門的な話になるのでいろいろ調べないといけないし、描いていてしんどかったんですよ。読んでいる人たちも興味を持てないかもしれないなあと思っていたところでした」

 確かに今シリーズは、第1回から「何かが起こるぞ」というワクワク感が強く感じられた。

 「社外取締役になったことで、外からその会社のコンプライアンスを見る形になるので、悩む人も多い後継者争いとか、少し下世話な話も描くことになるのかなと(笑)。そっちのほうが描いていて僕も楽しいです。年齢的に、島本人のラブアフェアというのはもう描かないでしょうね。夢物語として描いてもいいんだけど……嘘くさくなりますから(笑)」

 

先のことは考えない。一番楽しいのは、今です

 

 「思い悩まない」弘兼に聞くのは意味がない質問かもしれない、と思いつつ、40歳を前に人生に迷いを感じている人にアドバイスをするとしたら?と聞いてみる。

 「迷いですか……ハハハ!」と笑った後「まあ自分で解決するしかないよね、って言うかなあ」。

 「僕から言えるようなことは何もないですからね。元々性格的に、こうしろああしろと人に言えないタイプなんですよ。今、男の平均寿命が80歳ですから、大きな病気をしない限りはそれぐらいまで生きるわけで。だとすると40歳ってまだまだでしょう。『論語』だと『三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』だけど、今は10年ぐらい年齢が上がった感じがしますよね。40は惑いっ放しなのが普通。だから40にして立つ、かな。50で惑わなくなって、60になって自分のやることは何であるかがわかってくるっていうのが実感ですかね」

 弘兼の30代後半の担当編集者に事前に話を聞いた際は、切実な悩みとしてではないものの「40歳までに、異動や転職のようなトライをするかどうか、可能性を考えることはあります」と語っていた。弘兼が会社を辞めたのは25歳だが、彼のような40歳を前にした人には、転職をすすめるだろうか。

 「うーん……フリーランスになるのだとしたら、家庭を持っている人にはなかなかしづらい決断ですよね。これから子どもの教育費もかかるし、責任がありますから。奥さんに安定した収入があって、状況的に可能なら、フリーランスになってみてもいいと思う。フリーランスになったからと言って収入が下がるとは限らないし。むしろ増えるかもしれない(笑)」

 現在75歳。自身のこれから先の人生についてはどんなふうに考えているのか聞くと、「先のことは何も考えていないですね」とやはりぶれない答え。弘兼がいわゆる「成功者」なのは、自他ともに認めるところだろう。となると自ら過去の武勇伝のようなものを語りたくなっても不思議ではない。だが取材中は、こちらから深追いしない限り、弘兼の返答はごくあっさりとしたものだった。担当編集者いわく、ふだんから「思い出話」すらせず、「いつも今、ご自分が面白いと思っていることを話されます」。

 「確かに、自分から思い出話をすることはないですね。昨日観た映画の話とか、さっき食べたイノシシの話とかをしています(笑)。よくインタビューで、今まで生きてきた中でいつが一番楽しかったですか? って聞かれるんですけど、『今です』と答えていて。あの頃はあの頃の楽しさがあったけど今は今の楽しさがある。今も、『今が一番楽しいな』と思っています」

 

 取材終了後、写真撮影のために窓際へと促された弘兼。高層階だったため、見晴らしがいい。窓の外をのぞき込むと建設中のビルを指差し「あっ、あれって、今度新しくできる○○のビルだよね?」と言って、すぐに編集者と話し始める。弘兼憲史が本当に「今」に興味がある人だということを、その生き生きとした表情が物語っていた。

(了)

弘兼憲史 KENSHI HIROKANE

 

1947年山口県生まれ。早稲田大学卒業後、70年松下電器産業(現・パナソニック)に入社。73年に退社し、74年『風薫る』で漫画家デビュー。主な作品に『人間交差点』、「島耕作」シリーズ、『黄昏流星群』など。2007年紫綬褒章受章。

 

 

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