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【インタビュー】 鹿島アントラーズ 山本脩斗選手



今も実家の部屋に貼ってあるポスター

実家の部屋は今も高校時代のままだという。そこにはサッカー少年だった当時のまま、3枚のポスターが貼られている。1枚目はイングランドのスター選手だったデイヴィッド・ベッカムで、2枚目は日本サッカー界の先駆者である中田なかた英寿ひでとしだった。

山本やまもと脩斗しゅうとは少しだけ恥ずかしそうにもう一枚のポスターについて教えてくれた。当時はそのポスターに写っている人物と一緒にプレーすることになるとは想像していなかっただろう。

「ベッカムとヒデさん(中田英寿)と……(小笠原おがさわら満男みつおさんだったんです。今でも実家の部屋にそのまま貼ってあるんですけどね、そのポスター」

岩手県に生まれた山本にとって、6歳年上の小笠原は同郷の憧れであり、最も身近なスター選手だった。それ以上に深いつながりもあった。小笠原が大船渡高校時代に教わった齋藤さいとう重信しげのぶ先生が、その後、盛岡商業高校に移り、山本もまた齋藤先生の指導を受けたのである。

「齋藤先生からは何かあるたびに『満男は、満男は』って話を聞かされてました(笑)。それに当時の満男さんは日本代表だったので、活躍をテレビで見ることもできた。日本を背負ってプレーしているその姿を見て、自分の中では目指すべき存在というか、こういう選手になりたいなって思っていましたね」

齋藤先生を通じて小笠原からサッカー部にサイン入りのスパイクが届いたこともあったという。そのスパイクを恩師から貰い受けた山本は、大切に部屋に飾っていたそうだ。想像するに、そのスパイクを眺めながら山本少年は、「いつか自分も」と思いを馳せていたのだろう。


憧れの選手と同じピッチに立つ

山本がジュビロ磐田から鹿島アントラーズに加入したのは昨シーズンのことだ。数あるオファーの中から鹿島を選んだのは、その小笠原の存在が大きかったという。

「ジュビロではなかなか試合に出られなかったこともあって、他のチームでチャレンジしてみたいという気持ちがありました。ジュビロがJ2に降格した時だったので悩みましたけど、最終的にはチャレンジしようと。(移籍を決めた理由の)割合を数字で表せば、6~7割は挑戦という気持ちが大きくて、あとの決め手はアントラーズのチームカラーや雰囲気、それと満男さんがいたというのが2~3割はありましたね。……やっぱり、何より満男さんがいたというのが大きかったですね。移籍の話を進めていく中で、強化部長の(鈴木すずきみつるさんと直接、話をする機会があったのですが、『満男が待ってるって伝えてくれって言ってたぞ』って聞いたときはうれしかったですし、自分でも鳥肌が立ったというか、『やべー』って思いましたよね。満男さんとは東北人魂(※)の活動をするようになってから、年に1回は話す機会がありましたし、絡むようにはなっていたんですけど、そう言ってもらえたことが、やっぱりうれしかったんですよね」

東北人の気質なのか、小笠原の口数は決して多くはない。だが、その行動からは気遣いや、優しさが感じられた。山本が鹿島への加入を決めると、小笠原から連絡があり、「家は決まったか。何か困ったことがあったら連絡してくれ」と、常に気に掛けてくれた。チームが始動する前の自主トレに誘ってくれたのも小笠原で、鹿島のクラブハウスを案内してくれたのも小笠原だった。

「ヤス(遠藤えんどうやすし)や(土居どい聖真しょうま、(柴崎しばさきがくと、東北人魂の活動で知っている選手が多かったこともあったけど、満男さんのそういう気遣いがあったから、チームにも溶け込みやすかったんですよね」


部屋にポスターを貼り憧れていた選手と、同じユニフォームに袖を通して同じピッチに立つ。山本少年が見ていた夢が現実になった瞬間だった。

「アントラーズに入った時、最初に満男さんと同じユニフォームを着てピッチに立ちたいっていうことをまず強く思いました。だから当初は『あっ、同じユニフォームを着てる』って思いましたよね。本人にはもちろん、言わなかったですけど(笑)」

ただし、山本が感動に浸っていたのはそこまでだ。ピッチでは鹿島を背負ってきた男の厳しさを肌で感じた。

「練習もそうですけど、試合での雰囲気というか、球際の強さも含めた全体的なプレーに感じるところはありました。なかなか言葉にはできないですけど、これが“小笠原満男か”というのはありましたよね。あと、これは満男さんに限ったことではなくアントラーズにですが、ジュビロ時代に対戦した時もずる賢さみたいなものがありました。こっちのペースなのに試合はアントラーズが勝つというか、うまさや勝ち方を知っているというのは、中に入ってより感じましたね。昨シーズンは開幕3連勝でスタートしたんですけど、これが常に勝ち続けるチームなのかというのが最初の印象でした。勝っている時の残り10分や5分での満男さんの気の利いたプレーとかは、『なるほど』って、やりながらも思ったのは覚えています」


攻撃的な選手から守備的な選手へ

磐田ではなかなか出場機会を得られずにいた山本だが、鹿島に加入した昨シーズンはリーグ戦32試合に出場した。しかも、その全試合に先発。コンスタントに出場機会を得るのは、プロになって初めてともいえる経験だった。それだけにその1年で何を得たかを聞くと、山本は間髪を容れずに「自信」と答えた。

「そこに尽きますね。今までジュビロにいた時はコンスタントに試合に出られなかったので、やっぱりうまくプレーできない時も多かった。たとえ、うまくいったとしてもそれが数試合で終わってしまって、また控えに逆戻りみたいなことも多かった。それが今は違う。試合を経験して、守備の部分でやれるという自信がつくと、気持ちにもいい意味で余裕が生まれてくる。攻撃に入った時もそう。視野の広さやゆとりがある」

もともと山本は攻撃的なポジションの選手だった。高校時代は小笠原に憧れるのも頷ける背番号10番タイプ。大学時代もFWやトップ下でプレーし、「あまり守備はしていなかった」という。転機が訪れたのは、プロ1年目の2008年のことだ。当時は磐田でコーチを務めていた現アルビレックス新潟の柳下正明監督から、SBへのコンバートを持ちかけられた。

「シーズン終盤に行われた天皇杯の直前だったんですけど、ヤンツー(柳下やなぎした)さんに(SBを)やってみろって言われて。『はい』って答えるしかないですよね(笑)。それまで練習でも全くやっていなかったのに、いきなりSBで試合に出たんです。たまたま、その試合で開始1分も経たないうちにアシストして。試合は(1−3で)ガンバ大阪に敗れたけど、ヤンツーさんからの評価は総合的には悪くなかったみたいで。翌年からヤンツーさんがジュビロの監督になったこともあって、それからはSBとして練習するようになりました」

最初は攻撃的なポジションへの未練や葛藤もあった。「本当に必死でした」と当時を振り返るが、次第にSBというポジションにやり甲斐を感じていった。

「例えば一対一で相手を止めたときには充実感を感じるようになりました。あとは、例えば自分の背後を狙っている選手もいた場合、そこをケアしながら、相手のボランチとかがボールを持った時に、あえて駆け引きしてパスを出させてカットする。そういうところはすごく考えるようになりましたよね」

言ってみれば、それまでの攻撃的なポジションとは真逆である。SBは攻守両面での貢献を求められるとはいえ、重きは守備にある。山本は身体の使い方や足の運び方に至るまで、守備のスキルを一つずつ覚えていった。ただ、がむしゃらに取り組んでいく中で自身の強みをも理解していった。

「運動量には昔から自信があったので、今になってはそこを活かそうと思っています。90分間、求められているプレーをやり続けるというのは自分の中で大切にしていますね」

山本自身も話すように、磐田では途中出場も多く、シーズンを通して充実感を得ることはなかった。SBの楽しさを知ったのは鹿島に来てからだ。

「ジュビロの時はミスすると『うわー、やっちゃった』ってミスに対してネガティブな感じでしたけど、今はたとえ失敗しても、『仕方がない』と思って切り替えられるように考え方も変わった」

今では右の西大伍とともに左の山本も不動の存在となり、鹿島に欠かせないファクターとなっている。

「自分の特徴としては攻撃というよりも、まずは守備というのを心掛けています。守備では一対一でやられないことであったり、90分間体力を切らさずに、CBの裏に相手が走ったらしっかりセカンドボールを考えてついていくことを意識しています。あとはヘディングも特徴の一つではあるので、最近得点できましたけど、狙っていきたいですね。逆サイドのヤスや大伍は自分を見てくれるので、タイミングを見てチャンスがあればゴール前にも入っていきたい」

試合に出ることで、試合を経験することで、さらなる欲も湧いてくる。

「攻撃の部分で徐々に得点に絡めるようなプレーもできるようになってきたんですけど、もう少し攻撃のバリエーションというか、自分でもガツガツいく部分も必要かなと思いますし、そこを増やしていきたいなって考えています」

2ndステージ第7節のベガルタ仙台戦では、山本のクロスを逆サイドの西が折り返すと、走り込んだ土居がフィニッシュした。「ああいう形はどんどん狙っていきたい」と山本は語る。

ナビスコカップ準々決勝第1戦のFC東京戦では、ドリブルで左サイド深くまでえぐり、赤﨑あかさき秀平しゅうへいのゴールをお膳立てした。「もともとは攻撃的な選手だから、高い位置まで行ったときは後ろを気にせず仕掛けたい」と山本は意欲を示す。自身も認めるように鹿島のサイド攻撃と言えば、これまで右というイメージが強かったが、徐々に左からの攻撃でも得点につながるようになっている。真摯に、かつ丁寧に話してくれる山本の表情には紛れもない自信がみなぎっていた。


責任と自信が2ndステージの躍進に

今シーズンに話を移せば、鹿島は1stステージで8位に低迷した。2ndステージになってもチーム状況は上向かず、第3節を終えてクラブはトニーニョ・セレーゾ監督を解任すると、それまでコーチを務めていた石井いしい正忠まさただを監督に就任させた。山本がチームの転機について語る。

「セレーゾが解任されたことは、彼だけの責任ではなく、自分たちにもある。監督が代わっても、みんなが変わらなければ、何も変わらないというのは石井さんが監督に就任したときのミーティングでも話が出ました。練習から変えていこうということで、雰囲気もそうですけど、いつも以上に声も意識して、みんな出しているとは思いますね」

監督交代に踏み切った第4節から第10節でG大阪に敗れるまで、鹿島は破竹の6連勝を飾った。第10節を終えて2位。1stステージから一転、ステージ優勝をも狙える好位置につけている。

「石井さんもセレーゾ前監督がやっていたサッカーにプラスαしていくと話していましたけど、それほど大きく変わったところはないんです。ただ、セレーゾの時は練習中のスライディングが禁止だったけど、石井さんになって球際の激しさが求められるようになった。それが徐々に試合でも出せているのかなとは思います」


鹿島が掲げる伝統的なサッカーはある意味、普遍である。指揮官が代わろうとも、それが大きくぶれることはない。監督に就任した石井監督は、選手たちに戦う姿勢を取り戻させ、プレーにもアクセントを加えた。

「確かに守備は……石井さんもすごく強調するので意識するようになりました。特に僕らSBには、タイミングを見て行ける時はどんどん攻撃参加していいとは言いますけど、まずは守備から入るように言っています。だから、前よりも守備の意識というのは高くなったとは思いますね」

足りなかったのは山本が鹿島に来てつかんだのと同様、自信だったのかもしれない。「まだまだですけどね」と山本は表情を引き締める。加入してからそれほど長い月日は経っていないが、「周りからまだ2年目だっけって言われます」と本人も語るように常勝軍団の血が流れている。

「大事なのは、まずは目の前の一試合一試合に勝っていくことですよね。ここから2敗、3敗してしまえば、一気に順位も下がってしまう。だからこそ次の試合、次の試合と、毎試合が大事になっていく。ナビスコカップもそうですけど、みんなで獲ろうというのは話している。それにはリーグ戦だろうが、ナビスコカップだろうが、天皇杯だろうが気持ちが変わることなく、一つ一つのタイトルを獲るために一試合一試合、勝っていくことが大切だと思う」

先を見ず、目の前の試合に全力を尽くす——これは常に小笠原が口にしている言葉でもある。今はチームメイトとなった憧れの選手と同じ思い、意識、そして血が山本の中にも流れている。


※東北人魂とは東北六県出身の現役Jリーガー有志が設立した法人格を持たない任意団体で、東日本大震災で甚大な被害を受けた東北地方におけるサッカー発展のため活動している。(了)


取材・文=原田大輔(SCエディトリアル)
写真=佐野美樹



山本脩斗(やまもと・しゅうと)

1985年6月1日生まれ、岩手県出身。鹿島アントラーズ所属。DF。180cm/69kg。
早稲田大学卒業後、ジュビロ磐田への加入が決まっていたが、メディカルチェックで原発性左鎖骨下静脈血栓症が判明したため、完治した2008年6月に正式加入した。プロになりSBへコンバートされると才能がさらに開花。2014年の鹿島アントラーズ加入後は、持ち前の運動量を武器に不動の左SBとして攻守に貢献している。