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【インタビュー】 浦和レッズ 梅崎司選手



引退すら脳裏をよぎったケガ

頬を伝って流れ落ちるのは、浴びているシャワーの水だけではなかった。足を引きずりながらクラブハウスに戻った梅崎うめさきつかさは、放心状態で蛇口を捻る。他に誰かいるかもしれないなどと考える心の余裕はなかった。悔しくて、苦しくて、何度も、何度も壁を叩いた。自分自身を呪い、他人をも羨んだ。タイルに叩き付けられる水音がただ、ただ虚しく響いた。涙が止まらなかった。

2009年11月17日だった。梅崎は練習中に右足を負傷する。

「最初は骨が折れたのかと思ったんです。ポキって音が聞こえたから。すぐにドクターにチェックしてもらったら、靱帯が切れてるって言われて。今でも、足を引きずってクラブハウスに戻って、泣きながらシャワーを浴びたことを鮮明に覚えています」

診断結果は右膝前十字靱帯の損傷だった。シーズン開幕前の腰のケガから復帰したばかりとあって、精神的なショックは大きかった。

「腰を痛めたときは、まだ、すんなりとケガを受け入れられたんですよね。二次キャンプで腰をやっちゃったんですけど、1回目だったので、これも自分に与えられた試練かなって思うことができた。そこから半年くらいリハビリして、ようやく復帰して、試合でもスタメンで出場させてもらえるようになってきたところだったんです。それだけに受け入れられなかった」

梅崎が大分トリニータから浦和レッズに加入したのは2008年。前年には、わずか半年だったが、フランス2部のグルノーブル・フット38へ期限付き移籍し、欧州でのプレーをも経験した。10代にして日本代表にも選出され、青いユニフォームにも袖を通した。それだけに新天地・浦和でも「やってやるっていう気持ちが強かった」と話すほど、自信に満ち溢れていた。


ところが現実は違った。2006年にJ1で優勝し、2007年にAFCチャンピオンズリーグをも制した、錚々たる選手たちの揃うチームに打ちのめされる。

「結果的にびびってしまったほうが強かったですね。最初から簡単じゃないことはわかっていました。それでも当時、自分の将来を考えると、やっぱり日本代表になりたかったし、もう一度、海外にも挑戦したかった。そのタイミングで日本一であり、アジア一のチームから移籍の話をもらって、ここで勝負して勝てれば自ずと上が見えてくるというのが頭にあったので、迷わず選んだんです。ただ、シーズン序盤は良かったんですけど、自分を貫き通すことができなかったんですよね」

シーズン序盤こそ出場機会を得ていた梅崎だったが、若かったこともあり、うまく自己主張できずにいると、ポンテら主力がケガから戻ってくるにつれて出番を失っていった。徐々に途中出場が多くなり、最後にはベンチを温めるだけになった。それだけに加入2年目の2009年は奮起していた。「前年の悔しさもあり、相当、意気込んでいた」矢先の腰痛であり、右膝前十字靱帯損傷という立て続けのケガは、彼の心を深く抉った。

シーズンが変わってもリハビリの日々が続いた。それでも2010年の夏前には、なんとかボールを蹴れるところまで回復した。全体練習にも合流し、復帰まであと一歩のところまできていた。ただ、サッカーの神様は梅崎に厳しすぎた。二度あることは三度あると言わんばかりに、練習試合で右膝半月板を損傷したのである。

「ケガした瞬間は『また、やった』って思いましたよね。一瞬、引退すら脳裏をよぎりました。さすがに、もうやめようかな、ダメなのかなって思いましたよね」


自分の残像が消えた瞬間

梅崎が再びピッチに立ったのは、2010年10月23日、J1第27節のジュビロ磐田戦だった。右膝前十字靱帯を損傷してからほぼ1年が経っていた。苦しかった日々を思い出す。

「“超”辛かったですね。プレーできないなら体幹を鍛えようと考えたりもしましたけど、プレーできるようになってからが、また辛い。自分が頭で考えていることと実際のプレーがマッチングしないんです。イメージではこうやってドリブルしているつもりなんですけど、あっさり取られてしまうし、周りが見えない。このままじゃ選手として終わってしまうという焦りもありましたね。プロの世界なので、結果を出さなければいけないし、試合に出なければいけない。だけど、試合にも出られなければ、ベンチにも入れない。そうなると、どうしても契約のこともよぎりますよね」

外では平静を装っていたが、家では感情を爆発させた。

「そのときは、母と弟と一緒に住んでいたんですけど、めっちゃ当たってましたね。まるで遅れてきた反抗期ですよ。中学3年生で地元・長崎を出て大分のユースに入って、そのタイミングで家も出て寮生活だったから反抗期とかがなくて。今思うと、情けなくて笑えてくるくらい、家族に当たっていましたね。ほんと、一番、支えてもらいました」

梅崎が戦っていたのは対戦相手でも、チームメイトでもなく、過去の自分だった。

「今思うと、自分自身の残像というか、過去の自分を追いかけすぎていたんでしょうね。よく自分のことは自分が一番わかっているっていう言葉を聞くじゃないですか? でも、意外とわかってないんだなって自分のことって。よく考えれば、ケガをして手術もしているので、膝だって靱帯だって前とは違う。それこそフィジカル的にも違うんです。それなのに昔のというか、良かったときのプレーを思い描いて、その残像を見続けていたんですよね」

年が明けても、梅崎は理想と現実のギャップに苦しんでいた。世間から忘れられてしまうという焦燥もあった。だが、そのわだかまりが消える瞬間があった。それは2011年3月11日に起きた東日本大震災だった。

「震災ではたくさんの方が亡くなり、被災した方がたくさんいる。今もその方たちは苦しんでいる。あの震災を経て、生きているだけで、プレーできるだけで、自分は幸せなんだなって感じさせられた。今を大事にしようって思えたんです。感謝という言葉は間違っているかもしれないですが、そう考えたら気持ちが前向きになったというか。今、やれることをやろうと思えるようになれたんです」

気がつけば自分の残像は消えていた。練習でも、試合でも、梅崎は若かりし日の自分を追いかけることはなくなった。

「今は、“今”を大事にしています。昔を引きずっているわけではなく、客観的に比較することができている。自分が向上するため、成長するための研究とでも言えばいいですかね」


個性と組織のちょうどいいバランス

2012年にミハイロ・ペトロヴィッチ監督が浦和の指揮官に就任すると、梅崎は3−4−2−1システムのウイングバック、もしくは2列目のシャドーでプレーし、出場機会を増やしていった。プライベートでは同年に結婚、翌年には第一子が誕生した。大きなケガをすることもなく、充実した日々を送っていく中で、保守的になっていく自分にハッとした。

「プレーしていく上で、いろいろなことを覚えて、うまくバランスも取れるようになってきた。けど、それじゃあ面白くないし、バランスを取ってるだけじゃ、絶対に上にはいけないし、例えば日本代表とか大きな目標にも辿りつけない。実は少し前まで、それでもいいかなって思うところもあったんです。シーズンの半分くらいスタメンで出場して、途中からも必ず使われる。家族を持って、長くプレーを続けていくこともありかなって思ってしまっていた自分もいた。でも、それじゃあ、やっぱり選手として面白くないなって」

昨シーズン、梅崎はペトロヴィッチ監督に直訴した。

「自分の中で勝負の年だって考えたんですよね。だからミシャ(ペトロヴィッチ監督)に、シャドーで試合に出たいって言いに行きました。2列目のほうがポジション争いは激戦だったんですけど、そこで勝負しなければいけないというか、逃げちゃいけないという感覚があったので」

それは無難な選択をしそうになっていた自分への戒めでもあった。

「ミシャが掲げるサッカーに当てはまっているだけじゃダメだなって。いい意味で、自分でそれをも壊していかなければって。ただ、優勝の二文字が近づいてくるにつれて、勝ちたいという意識が強すぎて、もとに戻ってしまった」


昨シーズンの浦和は、長らく首位を走っていたが、残り3節で失速するとタイトルを逃した。「自分たちが先に王手をかけながら、優勝できなかったことには、何かしら理由がある」と話してくれた梅崎は、シーズンを終えて見つめ直し、ひとつの答えに辿り着いた。

「昨シーズン終盤のチームはまとまっていました。ただ、個人的には、みんながチームのためにという意識が強すぎたのかなって思ったんです。それが逆に人任せになっていたのかなと。僕は攻撃的な選手であって、やっぱりゴールを求められている。それなのにゴールよりも大切なことがあるという意識が強くなっていた」

梅崎と同様、選手ひとりひとりが優勝できなかった理由について自問自答したのだろう。今シーズン、リーグ戦13試合を終えて未だ無敗を続け、首位を走る浦和には、昨シーズンとは明らかに異なる“強さ”がある。

「昨年までは監督のサッカーに僕らがはまっているだけというか、そのサッカーをやろう、表現しようとしすぎて、それぞれの個性を消してでも、まずはチームのやり方にフィットしようとしていた。今はミシャが目指すもの、僕らが体現したいものがマッチしている。チームのためにという犠牲心はあるんですけど、その上でお互いがみんなの長所を出そうとしているとでも言えばいいですかね。それが昨年と比べて、チームの強みにもなっているんじゃないかなって思います」

その中で梅崎自身も新境地を開こうとしている。昨シーズン、監督に直訴してまでポジションにこだわった梅崎だが、「今シーズンはむしろ、なんでもできるようになりたい」と話すほど心境に変化がある。そして、それ以上に変わったのは、プレーである。

「これは自分の中で使っている言葉なんですけど、頭を空っぽにするというか、頭をフラットな感覚でプレーしようというのは意識していますね」

詳しく聞けば次のような感覚だという。

「常にピッチ上の状況は把握しているんですけど、サッカーは目まぐるしく味方の動きも相手の動きも変化していくので、トラップしただけでも、そこからワンタッチしただけでも状況は変わってしまう。だから、意識しすぎずに、一番自然な流れというか、自然な判断でプレーできる状態に持っていっているんです」

“無意識の意識”とでも言えばいいだろうか。その感触をつかんだのが、アウェイで北京国安と対戦したAFCチャンピオンズリーグのグループステージ第3戦だったという。

「自分の持ち味は強気だったし、ミスを恐れないところでもあった。常に自分で仕掛ける意識を持ってプレーしてきた。今はコンビネーションが重視されていますが、あまり連係、連係だけになりすぎず、自分が行くところでは行く。でも、その両方ともを考えすぎず、ちょうどいいプレーというんですかね。それが北京国安戦ではまったんです。自分の中で久々の感覚でしたね。身体も動くし、フリーにもなれる。それでいて力強さもあるというか」

昨シーズン、リーグ戦で4得点だった梅崎が、すでに13試合でその数字に到達しているのも“頭をフラットな感覚”にしてプレーしている効果なのだろう。

「それに加えて、得点パターンを増やそうと取り組んできたこともあると思います。本来、自分が得意ではなかったクロスへの飛び込みだったり、セカンドボールへの反応だったりといった動きを意識している。そういう積み重ねが得点につながっているのもあるかなって」

今はケガを恐れることも、若かりし自分の残像を追いかけることもなくなった。個性を押し殺すこともなく、それでいてチームのためにという犠牲心をも持ち合わせている。今、梅崎はまさに“ちょうどいい”バランスでプレーしている。そんな彼は今シーズンのチームをこう表現した。

「強いなって感じますね。油断とかではなく、実際にプレーしていて素直にそう思います」

自身の成長も実感している。チームの強さへの自信も漲っている。次に彼の頬を伝うのは、悔し涙ではない。(了)


取材・文=原田大輔(SCエディトリアル)
写真=佐野美樹



梅崎司(うめさき・つかさ)

1987年2月23日生まれ、長崎県出身。浦和レッズ所属。MF。169cm/68kg。
大分トリニータの育成組織を経て2005年にトップチームへと昇格。わずか半年ではあるが、2007年にはフランスのグルノーブル・フット38でプレーした。その後、大分に復帰した後、2008年より浦和レッズへ加入。度重なるケガに見舞われたが、2011年途中に復活すると、以後、2列目やウイングバックとして出場機会を増やしている。