40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【木村清】

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第13回は「すしざんまい」を展開する「喜代村」社長・木村清。マグロ初競りの話題や「すしざんまい」ポーズで、ビジネスマンの中でも特によく知られている人物だろう。40代で「裏切り」を経験してもなお笑顔でいつづける木村の、奥にあるものを探った。

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第13回は「すしざんまい」を展開する「喜代村」社長・木村清。マグロ初競りの話題や「すしざんまい」ポーズで、ビジネスマンの中でも特によく知られている人物だろう。40代で「裏切り」を経験してもなお笑顔でいつづける木村の、奥にあるものを探った。

(取材・文:門倉紫麻 写真:岡田康且)

※この記事はモーニング8号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

「すしざんまい!」

 取材場所の会議室に、木村清の声がビリビリと響き渡る。両手を広げた「すしざんまいポーズ」もぴたりと決まっている。 インタビュー後、写真撮影に移ってすぐに木村が「じゃあ、声かける?」と同席していた広報担当の男性に促すと「はい。よろしいですか? いきます」と流れるように応じ「お寿司と言えば?」とこちらもまたよく通る声で掛け声を発した。 それに満面の笑みで答えたのが、冒頭の木村だ。いつもの〝すしざんまい社長・木村清〟はこの連携プレーで生み出されているのだと感慨深い。少し場所を変えて2度お願いしたが、2度とも笑顔で全力の「すしざんまい!」を見せてくれた。 撮影時だけではない。取材冒頭から最後まで、木村はほぼずっと笑顔を絶やさなかった。

40代で一番つらかったことは「裏切り」です

 

 40歳前後のことを……と切り出すと「ベルリンの壁が崩壊してねえ」と1989年、木村が37歳の時に起きたニュースを真っ先に挙げた。自分自身のことでなく、社会的な大きな事件をあげたのは、このインタビューシリーズで木村が初めてだ。

 「ちょうどヨーロッパにいた時で。ベルリンの壁が崩れるっていうんで、見に行ったの。壁の破片をもらったなあ。こりゃ世界が変わるぞって思いました」

 当時は、27歳で最初の会社「木村商店」を設立した後、33歳の時に立ち上げた会社「喜代村」で着実に活躍の場を広げていた頃。

 「バブルで“いけいけ、どんどん”でしたね。マグロの買い付けなんかで世界を飛びまわっていました。ベルリンの壁崩壊の2年前にオーストラリアにいた時に、ブラックマンデーが訪れて……。そこから全体の景気が大変なことになっていったんです。ただバブルが弾けても、うちにはあまり響かなくて。変わらず世界との貿易はやっていたし、そこから何年も明るく楽しく元気よく、順調にやれていました。事業はみんな黒字化していた。メインバンクだった北海道拓殖銀行から借り入れていた百数十億円も、バブル崩壊後に残り5000万円以下のところまで減らせて……そうしたら追加で借りてくれって言うから、さらに借りることにして」

 大きな金額と、具体的なビジネスの話がどんどん飛び出す。
 その頃、中国で漬物をつくる事業を始めていた木村は、大根の作付けのために、別の銀行に融資を依頼する。すると「ブラックリスト入り」していて貸せない、と断られてしまう。驚いて調べてもらうと、「年に一度の手形の書き換えでよかったはずの4千数百万円の手形貸付を、僕が知らない間に、拓銀が一括返済を求める契約に変えてしまっていた。だからうちの会社は返済すべきものをしていない状態だったんです。それはないだろう、と……」。

 それまで当時の出来事を淡々と語ってきた木村だが「それはないだろう」という部分で、声に感情がこもった。

 「私が出張中に一括返済のハンコを妻に押させたんです。『手形の借り換え』だと思っていたから、それならハンコを押しておいてと言ったんだけど、分厚い書類の中に、『一括返済』と小さく書いてあったのが後からわかって」

 悔しさが表情にもにじむ。40代の一番つらいこと、というとその時のことになりますか? と聞くと「その時ですね。その裏切りだよね」。裏切り、とはっきりと口にした。
 だがすぐに「でもね、そうやって裏切られるのも、私の不徳のいたすところなんですよ」と笑顔に戻す。

 「出張から帰って、妻に『本当に(一括返済と)書いてあったね』って言ったら、妻が涙を流したんですよ。その涙を見て『ああ、事業というものは妻を幸せにするためにやっているんだ。泣かせるためにやってるんじゃないんだ!』とスポンと気持ちを切り替えました。よし、借金は全部返してやろう、と。結婚した時に、妻を幸せにしたいと思ったから、一生懸命働いてきたんです。それなのに、そんなことではいけないですよね。それ以来、妻にハンコを押したことは責めていない」

 モーニングの編集者が「パニックになったりはしなかったですか?」と尋ねると「うん、そういう時、あんまりならないね」とさらりと答えた。胆力があるからなのか、それともビジネスマンとして積み上げてきた経験則によるものなのか。

 「うーん。元々、ゼロからスタートしましたからね。裸一貫だから、ゼロになることは別に大丈夫。まあ、でもそんなかっこいいもんじゃありませんでした。またやればできる、と思っている。人をいじめたり泣かせたりするよりも、自分でかぶって、自分でまたやったほうがいい。体は元気なんですから。怖がることは何もないし、苦しいとか思っている暇もない。妻も好きにやっていいよって言ってたし、僕も『1日1万円くらいは稼ぐよ』って。そんな感じです(笑)」



何のために仕事をするか。根本がわからないから、迷う

 

  40代で積み上げてきたものがゼロになっても、もともとゼロなのだから、またやり直せばいい──そのシンプルな考えに行きつきたくても、何かともやもやと悩んでしまうものだ。今、40歳を前に、そうやって迷っている人に何か言うとしたら?

 「何のために仕事をするのかという根本がわかっていないから迷っちゃうんだと思う。迷ったら、人は何のために生きるのか? と考えてみてほしいですね。さっき妻のことを言ったみたいに、人を幸せにするためにこそ、僕たちは生きている。人が幸せになったら、自分も幸せになる。その考え方がわかっていない人には、いくら何か言ってあげたってダメなんです」

 人のために、と思いながらもエゴがでてきてしまうのもまた常だ。

 「それは簡単なこと。今、これからやる行為は、人を幸せにできるのか、自分のためなのかを考えてみる。そうすると、見えてくるでしょう。『自分の財産はこれ以上渡せない』とかちっちゃいものを守りすぎてしまうと、悩むことになる」

 そして、日々の生活の中に大切な「やるべきこと」があるという。

 「いつも笑顔でいること。すれ違った時、笑顔で『おはようございます』って言われると気持ちいいでしょう。黙ってスーッと通りすぎる人を見たら嫌な気持ちになる。それだけで、人を傷つけちゃうわけですよ。小さい子供だって元気よく言えるのに、大人がぶすっとしているのは違うよね。生きている以上、何事も明るく楽しく元気よく、笑顔でやればいいんです」

 悲しいことが起こった時でも、笑顔でいようと決めているのだろうか。

 「うーん、慣れるんだよね」と言った後に「でもこれは本当はいけないことなんでしょうけど……」と意外な言葉。

 「ある方に『人前で泣ける勇気を持たんといかん』と言われたことがあったんですよ。でも僕はまだ、その域には達してない。人前では泣けない。親からも『男は泣くんじゃない』って言われて育ったから泣くのは嫌いだったし、ずっと泣かずにきたんだけど……それじゃいけないらしい」

 取材中、繰り返し口にしてきた「すしざんまい」のモットー「明るく・楽しく・元気よく」を体現するように笑顔で居続けた木村が、「泣ける勇気を持つ」ことも念頭に置いている、という事実に少しほっとしてしまう。「人前で」泣くのが無理ならば、どこかに泣ける場所はあるのだろうか? 例えば、妻の前では?

 「泣けないねぇ。妻の前では余計泣けないでしょう」

 では、木村はどこで泣くのだろう?

 「布団の中で」

 布団の中で泣く木村の姿が浮かぶ。そのほうが木村にとっては楽ということだろうか。

 「楽ではないけどもね……たまに涙が出そうな時はあるけど、人前ではそういうことはしない。布団の中で一人で泣くよ」

 その「涙が出そうな時」とはどんな時なのですか、と追って聞いてしまう。すると「うーん。一番初めはね……小学校1年の秋かな」と驚くほど昔にさかのぼる。そして詳細に記憶を語り出す。

 「友だちと2人で、12、3キロ先の隣町まで買い物行ったんです。帰りのバスを待っていたんだけど、友だちが急にトイレに行くと言って、いなくなっちゃった。何時間も待ったんだけど、最終バスが行ってしまっても戻って来ない。もう夜8時くらいで、真っ暗でね。一人で家まで4、5時間、道もわからない中歩いて帰ったんだけど……その時かな。家の灯りが見えた時に泣きそうになった。でもその時も我慢しましたけどね」

 大人になってから、「涙が出そう」なほどつらいことはないのだろうか?

 「大人になってからは……つらいのはやっぱり人の裏切りだよなぁ。でもそれもつきものですから。相手も裏切りたくてやるんじゃないと思う。そういうこともあるよね。不徳の致すところですよ、自分の。だから人に、じゃなくて自分に悔しくなる」と、先ほどと同じ結論に戻った。

40代の木村(右から2番目)。経営するレンタルビデオ店は大繁盛だった

 

持つべきものは友だちです

 

 40代の「裏切り」の後に話を戻す。一気に返さなければならなくなった4000万円以上の金は、複数持っていた会社を整理するなどして、決意した通りに完済。もう事業はやらない、と思い始めていたとき、木村の元に友人たちから次々に資金の援助が寄せられた。

 「持つべきものは友だち。みんなもバブル後で大変な時なのに、『使ってよ』って契約書もなしにお金を送ってくれました」

 たまたまいい友だちがいた、ということではないだろう。自分のどういう部分が、そうさせているのか、少し分析してみてもらえませんか? と聞いてみる。

 「それはわかりませんけどね……まあ嬉しいですよ。持つべきものは友だなと」そう繰り返す。

 「そのお金で、マグロを獲りに行きました。その時はたった2本しか獲れなかったんだけど(笑)。金利代わりにマグロをつけて、みんなには返済しました。そこに妻の後押しがあって、規模は縮小してもまた事業をやろうかなと思えるようになりました」

 手元に残っていた300万円のうち、200万円を使って97年、45歳の時に「喜よ寿司」を開店。これが木村が手掛ける初めての寿司店となった。海鮮丼を中心とした小さな店は順調に軌道に乗り、次第に行列のできる人気店となった。

 一方バブル崩壊後の築地からは客足が遠のき、活気が失われつつあった。そんな中、築地場外市場の好立地に店を持つオーナーから「築地に人を集めてくれないか」と声がかかる。「ここを貸すから好きに使ってくれ」という、破格の条件だった。

 「お前を30年見ていた、と。でも、その時の僕はお金がなかった。一度は断ったんですが、保証金も後でいいからと言ってくれたんです」

 声がかかってからわずか1年ほどで、2001年に「すしざんまい本店」が開店する。

 「どうやったら人を集めることができるか、とかいろんな計画をしました」

 そこまでの信頼関係を、どう積み上げてきたのだろう。「30年」、木村のどこを見て、そう思ったのだろうか? と聞くと、やはり「それはわからないなぁ」と答える。「言ってなかった。聞けばよかったですね(笑)」

 

事業の始まりから末端まで、一気に出てきちゃう

 

 今回の取材では、30代後半以降のことを主に聞いてきたが、自伝的な著書『マグロ大王 木村清 ダメだと思った時が夜明け前』では、木村の仕事の歩みが丁寧に語られている。
 小学校入学前の、ウサギを育てて売る仕事と卵の販売(有精卵をかえして雌鶏を育て卵を産ませた)、15歳で入隊した自衛隊でのこと、百科事典の訪問販売、水産業界入り、何十もの新事業の立ち上げ──。そして「喜よ寿司」から「すしざんまい」開店へ。「すしざんまい」の二十四時間年中無休という業態、深夜の集客のためにとった行動など、具体的な策がいくつも語られている。
 幼少期からの木村の仕事の仕方を見ていると、アイデアの豊富さに驚くと共に現状を冷静に分析し、何が必要かを洗い出し、調査し、計画を立て、実行・交渉し、実現させ、想定外の出来事に直面したらまた分析に戻る──ということをずっと繰り返してきた人だとよくわかる。それを伝えると「ああ……うふふふ」と、目を細めて笑った。
 特に興味深いのが、自衛隊時代の経験が精神面だけでなく、スキルとして生きているところだ。「すしざんまい」の二十四時間体制の従業員のシフトの組み方も、食材の在庫管理法も、自衛隊時代に培ったものを応用。ビデオレンタル事業に参入した際には、自衛隊のコンピューターを扱う部署で学んだことを活かし、プログラマーと共に自らもプログラムを組んだ。

 「アメリカのIBMのコンピューターだったね。その時に、ものの考え方が自然と身に付いたっていうのはあると思います。物事は、原因から結末まで、1つずつの点としてあるんじゃなくて、全部が繋がっている。どこか1か所悪いところがあると、ここも、あそこもおかしくなっていく。だから事業をやる時も、ロジックがすぐ出来上がるんです。始まって末端まで来るには、まずこうして、次にこうしてこうだ、と考えるまでもなく、1つの事業について最後まで一気に出てきちゃうんです」

 生き生きとそう語る姿から、強い自負と自信が伝わってくる。そこで学んだ、というだけでなく、もともとの資質が開花したのだろう。

 「でもね、みんなは『社長は口から出まかせを言っているんじゃないか』って言うんです!」と同席していた社員のほうを見て笑う。モーニングの編集者から「失礼ながら、世間的な社長のイメージというのは、“感覚の人”“ひらめきの人”だと思うのですが、すごく緻密に考えておられることがよくわかりました」と我々の気持ちを代弁するような言葉がかかる。

 「そうなんです! 細かい計算から何から、全部やってるんです。この前、脳外科で脳波をとったら、先生が『木村さんはすごく細かい人なんですよ』って言っていました。脳波に出るんだって。嘘か本当かはわからないけど(笑)」

 

僕はいつもありのまま

 

 編集者の言うように、木村がもともと持っている親しみやすく、明るいキャラクターは「すしざんまい」のビジネス上の大きな強みでもあるだろう。そうした自分のキャラクターを前面に出すことや浸透させていくことも、ロジックで考えた結果なのだろうか? だがそう聞くと「それはないですね」ときっぱりと言った。「僕はいつもありのまま」。

 各店舗の入り口にある木村を模した大きな人形も、周囲の提案で置くことになった。「すしざんまい」ポーズも「やってください、って言われたからやったんです。そうしているうちに人気が出た」。

 ロジカルに考えつつ、それ以外の要素も受け入れていく。

 「あと、絵とか色っていうのは、ロジックじゃなくて、ひらめきだよね。『本陣』と『奥の院』の内装の壁の色は僕が決めた」

 「本陣」と「奥の院」は「すしざんまい」の中でも落ち着いた雰囲気が特長の店舗。その空気感を左右する壁の色を、木村自身が決めたということだ。

 「本店(1号店)を作った時も、ピンク色は、僕が決めた。海外の有名ブランドの社長が来店したときも、『ワンダフル』って言ってました。こういう建築にしたい、っていうのも僕が実際に絵を描いて建築家の人に提案したんだけど、大学の先生が『これは人間が一番歩きやすい通路です』って。そういうのはロジックじゃない。ひらめきですね」

 編集者が「『ありのまま』だとおっしゃいましたが、自分を良く見せたい、こう見せたい、というような気持ちはないのでしょうか?」と尋ねる。

 「それはあんまりないな。飾りつけもしないですし。妻にはもっと良い背広とかネクタイ買えば? って言われるけど、そんなものはいらないんです。自分を飾り付けたり、きれいに見せようとしたり、本当はできないのに言葉上ではできることにする人間は僕はあんまり好きではない。すぐ、見えるもの。本物の実力があるかどうかは、見えますよ。そういう人が一生懸命やっている姿をきれいだ、と思う。芸能関係は着飾ったりすることも必要だと思うけど……でも歌を歌うにしても、そこに心が入っていないと聴いていてだめだって思いますよね」

 「本物の実力」があるかどうかや「一生懸命やっている」かどうかは、人のどういうところで判断するのだろう。

 「それはもう、あなたもそうだけど、そういう人を見たら、パッと感じますよ。エネルギーがピッと入ってくる。電気エネルギーだな。人間っていうのは、電気が通ってるから。そういうこと言うと、何だかオカルトみたいに思われちゃいそうだけど(笑)。目に見えなくてもわかることってあるんです」

 

 

常に状況を見ていれば、わかってくる

 

 ビジネスの最前線に身を置き続けて来た木村から見て、現在の日本経済はどのように見えているのだろう。悪化していると思えて暗い気持ちになるのですが……と伝えると、まずは何も言わずに、ひと際ニコッと笑った。木村はそう見てはいない、ということだ。

 「大丈夫、大丈夫。経済というのは、戦略的にそうされているものだから。その“裏の道”を行けば大丈夫です。常に状況を見ていると、何かがこうなってこうなったから、今度はこうなるな、とわかってくるんです」

 木村には「今度」が見えているということだ。そして「そうされている」「裏の道」という言葉。ビジネスマンとして、人前では語らない、著書にも書かれていない、シビアな場面にもいくつも遭遇してきた人なのだ、とあらためて思う。笑顔の奥に凄みのようなものを感じて、ひやりとする。

 編集者が「ちなみに睡眠時間はどれくらいなんですか?」と聞くと「最近ね、4時間半から6時間くらい寝るようになりました。3年くらい前までは1時間半。ナポレオンの3時間より短かかった(笑)」

 現在70歳。67歳まで1時間半だったとは──あまりのタフさに驚く。

 「50代、60代までは、30分と寝てないよ。夜中の3時くらいまで銀座で飲んで、家に帰ってシャワーを浴びたら30分くらい寝て。それから市場に行く。それを毎日やっていました。それでもなんとかなるんです。車の中で30秒だけ寝るのを3回か5回繰り返したら、シャキッとする」

 著書の中では「90歳まで働く」と語っていたが、6年経った今の気持ちを聞くと「98歳ぐらいまでは元気で働かせてもらえれば」と8年も伸びている。「そこからゆったりと、20年ぐらい生活できるといいかな。手相だと120歳まで生きるみたいです(笑)」。

 ゆったり過ごす時間が訪れたら、やりたいことはあるのだろうか。

 「あんまりないですけど……自分で飛行機作って飛んでいるかもしれない。子どもの頃は、パイロットとして生きていきたいと思ってたんです。それで自衛隊にも入ったんだけど、事故で目を悪くして断念して。でもまあ、これからもっといい道を見つけるかもしれない。引退までには、まだ20年以上、二回りありますから」

 ではその20年、仕事面ではどういった構想があるのだろう。今も多角的に事業を展開しているが、それを深めていくのか、それとも違う分野に広げるのか──。

 「どうだろうね、別の分野は……。とりあえず、すし文化、日本食が、さらに世界に根付くようにしたい。和食はユネスコの無形文化遺産にもなるくらい知られるようになりましたけど、さらに磨きをかけた日本食を、世界の人たちに味わっていただきたいし、そういう味の作り方を教育というか指導させてもらっていく。それが今のところ私の使命かなと思います」

 これまでにも語られてきた木村の使命であり、本心でもあるだろう。だが「とりあえず」「今のところ」という含みのある言い方から、さらに新しいことをやるよ、という空気を感じるが──。

 「いやいやいや。そういうことは、あんまり言わないよ(笑)」

2019年、大間産本マグロを史上最高額の3億3360万円で落札。大きなニュースに

 

(了)

 

木村清 Kiyoshi Kimura

 

1952年千葉県生まれ。株式会社喜代村代表取締役社長。中学卒業後、航空自衛隊第4術科学校生徒隊に入隊。退官後、新洋商事での勤務を経て、喜代村の前身である木村商店を創業。1985年喜代村設立。90種類もの事業を手掛ける。2001年「すしざんまい本店」を開店。著書に『マグロ大王 木村清 ダメだと思った時が夜明け前』。

 

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