40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【山田五郎】

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第10回は、40年前、モーニング創刊と同じ年に講談社に入社した山田五郎。雑誌関係者がカルチャーを作っていた時代、その渦中で山田は何を見ていたのか。「地獄だった」40歳時の「カオス」な日々の描写は必読!

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第10回は、40年前、モーニング創刊と同じ年に講談社に入社した山田五郎。雑誌関係者がカルチャーを作っていた時代、その渦中で山田は何を見ていたのか。「地獄だった」40歳時の「カオス」な日々の描写は必読!

(取材・文:門倉紫麻 写真:柏原力)

※この記事はモーニング42号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

「モーニング」が創刊40年
僕が講談社に入ってから40年

 

 山田五郎の名前を聞いて、テレビ番組に評論家として登場する姿を思い浮かべる人も多いだろう。だが肩書にはいつも「編集者」と併記されていて、編集者としてのキャリアはちょうど40年になる。

 「『モーニング』が40周年ということは、僕が講談社に入ってから40年経ったということですよね」

 本人がそういう通り、「モーニング」が創刊されたのと同じ’82年に、山田は講談社に入社し、編集者人生をスタートさせている。

 「新入社員研修の場にモーニング編集部の方たちが来て、『どんなマンガを載せたらいいと思うか』みたいなことを聞かれたのを覚えています」

 新入社員として「モーニング」の創刊についてはどう感じていたのだろう。

 「講談社にも大人向けの漫画誌ができることが、とにかくうれしかったですね。創刊号に関川夏央と谷口ジローの『グッドラックシティ』がカラーで載っていて、いいところを持ってくるなあと感激しました。僕はもともと漫画も好きで、大学の卒論も野球漫画がテーマだったから、漫画の編集部も希望部署のひとつだったんですよ。先に創刊していた「ヤングマガジン」には、大友克洋の『AKIRA』が載っていましたしね。そういえば女性誌の「with」も、その頃に創刊したんじゃなかったかな」

 ’80年に「ヤングマガジン」、’81年に「with」、そして’82年に「モーニング」が創刊されていて、この時代に雑誌というメディア自体が盛り上がっていたのを感じる。

 「入社後も「ViVi」や「FRIDAY」など創刊が相次ぎました。だから僕の同期は、最初は営業に配属された人たちも含めてほぼ全員が、最終的に雑誌の編集部に『徴兵』されましたね」

 

 

40歳は、地獄でした(笑)

 

 入社後しばらくは、男性向け情報・カルチャー誌「ホットドッグ・プレス」を経て、女性誌「ソフィア」、男性ファッション誌「チェックメイト」と雑誌の編集部を渡り歩いた。

 「『ホットドッグ』で10年近くメンズファッションを担当してきたので、『チェックメイト』での仕事はやりやすかったですね。スタイリストさん、ライターさん、カメラマンさん、みんな顔なじみだから、『こんな感じでひとつ』とお願いするだけで、思った通りのページができる。しかも、当時の編集長のモットーが“低空飛行”。墜落しない程度に売れればいい、と(笑)。おかげで、とても平和で幸せな日々を過ごせました」

 だが1997年、タウン情報誌「TOKYO1週間」の副編集長として、創刊に携わることになると環境が一変。30代の終わりから40歳にかけては「地獄でした」。

 「むちゃくちゃだったんですよ、もう(笑)。週刊誌というだけでも大変なのに、それまでにやったことのないフルデジタルでやれといわれて」

 印刷所へ「紙」で入れる形式から「データ」で入れる形式に移行する時代。その混乱の中での新雑誌創刊は困難を極めた。

 「黎明期でしたからね。印刷会社からも技術者が派遣されてきていて。画像処理ソフトのバグで校了の時に『なんで地図が印刷されていないんだ!?』みたいなことがしょっちゅう起きていました」

 同席していたモーニングの編集者が、恐ろしいですねと実感のこもった声でつぶやく。

 「そういうテクノストレスに加えて、講談社がやったことのない分野の雑誌だから、わからないことだらけだったんですよ。例えば、映画の上映表。配給会社に聞けば全館の情報がわかるだろうと思いきや、上映予定は各館ごとに決めるので、一館一館に毎週、確認をとらなければならなかったんですよ。その衝撃の事実が判明したのが、創刊の2ヵ月前ですからね。ライブ情報のページには、あまり聞いたことのないバンドも掲載するわけですが、バンド名の表記や欧文スペルがいい加減なことが多くて、『どうやってチェックしろというんだ!?』って校閲さんに怒られたり(笑)」

 今のようにネットで正確な情報がすぐに調べられる時代でもなく、その苦労は想像に難くない。

 「とにかく人海戦術とパワープレーでやるしかなかった。一人、すごい編集者がいてね。“重機”みたいな仕事ぶりの。後始末はできないけど、どんな難題でもとりあえずはやっつける(笑)。ある朝、編集部に行くと見たことのない人たちがごろごろ床に転がってて、『どちらさまですか』って聞いたら『昨日の夜、池袋でバイトしないかって誘われて』って言うんですよ。どの携帯電話が通じやすいかを検証するページを任された“重機”が、街で手当たり次第に声をかけてつかまえたバイトに一晩中、あちこちで電話をかけさせていたようです。その頃、僕らは僕らで50店くらいの餃子を買ってきて、ひたすら大きさと重さを量っていたわけですが(笑)。もう完全にカオスでしたね」

 話が詳細で、語り口と相まっておもしろい。楽しそうにも聞こえますが、というと「楽しくないよ!」と笑う。

 「疲労困憊、意識朦朧で、ビール飲もうとしたら瓶を割って、右手の人差し指が骨が見えるくらいザックリいっちゃったんだから! でも、医者に行く時間がないから、バンドエイドでぎゅうぎゅう締めて止血しただけで仕事してたんだから! おかげで神経が切れちゃって、今も右手の人差し指の先の感覚がないんだから!」

 印刷形式の移行による大変さと、タウン情報誌ならでは物量の多さがミックスされて、副編集長である山田の肩にものしかかっていたのだ。

 「本当に大変だった。いつか落とす(発売できない)んじゃないかと、ヒヤヒヤしていました。テクノストレスが本当にひどくて、創刊前後は不安で夜も寝られないくらいでしたね。大量の情報を未加工のまま掲載するというのも、情報を加工する仕事をしてきた自分にとってはストレスでした」

 

30代のうちに、海外へ行け

 

 以前、編集者の仕事についてのインタビューで〈『興味がなくても頑張って好きになる』。つまり、好きになること自体が仕事なんです〉と語っていた。

 「ずっとそう思ってやってきましたけど、『1週間』の場合は好き嫌い以前の問題で。そんなことを考えている暇があったら、1軒でも多く映画館を回れ! 1個でも多く餃子の重さを量れ! と。目の前に次々あらわれる課題に対処していくだけで精一杯でした。ようやくこれは回っていくかな、と思えるようになったのは、創刊から半年ほど経った頃ですね。ちいさなミスは山ほどあったけど、大きな事故は一度も起こさず創刊時の嵐を乗り切り、短い間だったけど十分すぎるほどやらせていただきました、って感じでした(笑)」

 そこでようやく「許してもらって」、40歳の終わりに「ホットドッグ」に戻り、編集長に就任した。

 「それはそれで、別の意味で大変でした。僕は管理職に向いていないんですよ。他人に関心がないですから(笑)。なのに会社は『部下とコミュニケーションを取れ』という。それが結構、苦痛でした」

 現場で手を動かすよりも、人をどう束ねるか、に重点が置かれるのが編集長だ。

 「だから僕には全く向いていない。なのに年齢だけで管理職をやらされても、部下もいい迷惑ですよね。その頃から、会社を辞めようかなと考え始めました。でも、どうせ辞めるなら、入社時に志望していた美術書を作る仕事をしてから辞めたい。そう人事に相談したら、『週刊 世界の美術館』を作る部署に異動させてもらえたんです。上司と同僚に恵まれて、仕事も楽しかったんですが、いろいろと思うところも出てきて……。そんなとき、信頼していた上司が会社を辞めるかもしれないと聞き、だったら先に辞めようと(笑)」

 こうして45歳で、山田は退職した。
 取材中、モーニングの編集者と出版界の豪快なエピソードを語る場面が多くあった。山田より20歳以上も下の世代だが「山田さんの世代には、僕も知っているような、面白くて有名な編集者たちがたくさんいる」のだと言う。
 上司に理不尽な要求をされて反抗した時に唯一味方をしてくれた同僚のこと、編集部員のとんでもないミスの後始末をしたこと──大体は大変だった経験として語られるのだが、モーニングの編集者が「“青春”的なところがありますよね」と表現したように、当時の出版界の熱さと、山田自身の情熱と古巣への愛情も伝わってくる。
 長年愛読しているという『島耕作』シリーズについてや、現在のヤングマガジンなど漫画に関しても、編集者の視点から鋭い意見を口にし続けた。
 本企画の主旨である、40歳を前にこれからどうするか迷ったり、不安を抱えたりしている人にアドバイスをするとしたら? と聞くと「何が不安なんですか? 40歳なんて一番バリバリに働ける時じゃないですか。いわゆる“脂が乗ってる時期”でしょう」と不思議そうに言う。

 「やりたいことを、やりたいようにやればいい。それができるだけの経験と実績を積み重ねてきたはずの年齢なんですから。もし今、自分が30代だったら、ですか? うーん、たぶん、海外に行くんじゃないかなあ」

 大学時代オーストリアに留学し、海外生活を経験している山田らしい選択。

 「今の日本の若者は、将来に希望がもてないって言いますよね。実際、そうだと思います。だったら若いうちに、より希望が持てる国に逃げたほうがいい。僕らの世代は、こんな日本にしてしまった責任がありますし、還暦過ぎて環境を変えるのも正直、キツい。でも、若者には何の責任もないから逃げても責められませんし、30代ならまだ環境の変化にも余裕で順応できますから」

 編集者が38歳だというと、「ギリギリの年齢かも。40代も半ばを過ぎると体力的に厳しくなってくるんじゃないかな。子どもを連れて行くにしても、日本的な自我が形成される前の小さいうちのほうがいいだろうし」

 

テレビに出ることに、一大事感はなかった

 

 会社員生活を送るのと並行して、評論家・山田五郎としての活動が始まったのは、33歳。一度目の「ホットドッグ」編集部配属時代。最初のテレビ出演は『タモリ俱楽部』だった。

 『タモリ倶楽部』の構成作家をやっていた高橋洋二さんが、「ホットドッグ」でライターもしていたんですよ。最初は『いい人がいないか』と相談されて、何人か紹介したんですが、その週の土曜に収録という急な話だったから軒並み断られ、なぜか僕にお鉢が回ってきた。僕は僕で、ちょうど財布を落としてお金がなかったから、出演料に目が眩んで(笑)」

 裏方である編集者がテレビに出るというのは大きな転機のようにも見えるが、山田は「そんなに“一大事感”はなかった」とさらりと言う。

 「その頃って、深夜帯のテレビに文化人と称して、雑誌関係者がいっぱい出ていて。編集者の川勝正幸さんだとか、講談社の後輩のいとうせいこうだとか、ふだん一緒に仕事している人が普通にテレビに出たり、関わったりしていましたから」

 「TOKYO1週間」副編集長だった40歳の超多忙時には、現在も出演している『出没!アド街ック天国』のレギュラーコメンテーターにも就任している。

 「実は『アド街』の前から『ウィークエンドライブ週刊地球TV』っていう金曜深夜の生放送番組に出演していて、その掛け持ちのほうが大変でした。金曜日は「TOKYO1週間」の校了日でしたから。校了紙を読んで疑問点や修正箇所をスタッフに指示してから生放送に向かい、終わるやいなや編集部に戻って責了していました」

 充実していた、ととらえることもできそうだが……。

 「確かに充実してましたよ。仕事がパンパンに詰まってた、という意味ではね(笑)」

 テレビの仕事を始めてみて、自分に向いている、という手応えはあったのだろうか。

 「今日まで続けてこられたのだから、ある程度は向いていたのかもしれません。でも本人には自覚がなくて、単に言われたことをやってきただけって感じです。そもそも僕は主体性がなく、自分から何かをやりたいと思ってやったことがほとんどない。流されるままの人生ですよ」

 一瞬意外に思うが、確かに編集者の仕事では自らのやりたいことのみを追求する場面よりも、プロデューサーとして客観的な立場に立つ場面のほうが多いはずで、なるほど、と思う。

 ちなみに「山田五郎」は、本名ではない。

 「話すと長くなりますが……。あるライターさんが初めての単行本を出すことになったけど、その出版社の社長さんが付けてくれたタイトルが気に入らず、なんとか角を立てずに断れないかと悩んでいた。そこで『すでに同じタイトルがあったことにしちゃえばいいじゃん』と、その場で僕が山田五郎という著者をでっち上げてコラムを書き、ナンシー関が挿絵の消しゴム版画を彫って、いとうせいこうが担当していた読者欄で連載を始めたんです。いかにもクレームを付けてきそうな感じを出そうと、大阪の中華料理屋の頑固親父というキャラまで設定して。さらに実在感を出すために、ナンシーとえのきどいちろうさんがやっていたラジオ番組に、僕が老人のフリをして出演までするという念の入れ方でした。その番組に電話出演してくださったゴンチチのチチ松村さんは、すっかり山田五郎は老人だと信じ込み、後に『タモリ倶楽部』を見て驚かれたそうです(笑)」

 

 

悪ふざけができなくなっていった

 

 山田を始め、レジェンドともいえるサブカルチャーの重鎮たちが、若き日にメディアを自由に行き来しながら、才能を発揮していた姿が目に浮かぶ。

 「攻めたテレビ番組もいっぱいありましたね。『タモリ俱楽部』もそうだし、フジテレビの深夜にも『たほいや』(1993年)とか面白い番組をいろいろやっていて、同じような面子でよく出ていました」

 モーニングの編集者が山田を初めて見たのも、フジテレビの深夜番組だったという。

 「高校時代に『ザ・会議室』(2000~2001年)を観ていて。山田さんと伊集院光さん、みうらじゅんさんの3人の番組です。夜中に、いいものを観ているなあと思っていました」と言うと「まだあんなことがやれてたんだよねえ」と応じた。

 「ただ、2000年頃には、もうだいぶ悪ふざけができなくなってきていましたね。やれていたのは、95年くらいまで。僕の中では、89年が一番のターニングポイントですね。昭和の終わりが近づくとともに“自粛”が始まったんですよ」

 昭和天皇の体調悪化が報じられた1988年の秋から1989年1月の崩御後まで、いわゆる“自粛ムード”が日本を覆った。

 「それまでの“自主規制”には、誰に配慮して何をどう規制するかという、はっきりした基準がありました。ところが昭和の終わりの“自粛”は、どこからもクレームもこなければ官憲に取り締まられるわけでもなく、何をどこまで制限すべきか誰もわからないまま『とにかく問題になりそうなことはやめておこう』となったんです。僕が知る限り、日本のマスメディア史で初めてのことだと思います。今に続く“忖度”は、あのときに始まったんですよ」

 さらに、同じく’88年~’89年に起きた、宮崎勤による「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」も、当時30歳で「ホットドッグ」編集部にいた山田に、影響を及ぼしたという。

 「宮崎勤は「ホットドッグ」の寄稿家のアシスタントをしていた時期があったと、週刊誌の記者から聞いて、冷や水を浴びせられた気がしました。調子に乗って何でもアリで悪ふざけばかりしていたところに、シャレにならない現実を突きつけられて、一気に酔いが覚めた感じです。それでも今と比べると、充分ふざけていたのかもしれませんけど。今はちょっとでもふざけると、すぐに怒られますからね。それも若い人たちに」

 編集者が「うらやましいです。正直言って、今はふざける余裕がないです」というと、「そうだよね。デジタル化で作業効率は上がっているはずなのに、逆にどんどん余裕がなくなっていくから不思議だよね」としみじみ言った。

 雑誌というメディアが盛り上がりを見せ、雑誌関係者がカルチャーを作り、テレビでも“悪ふざけ”が許されていた時代から、許されなくなっていく時代へ──。山田はまさにその渦中の人として20代から30代を過ごし、時代が変わっていくのをその目で見てきたのだ。

 「僕が40代に入った頃から、廃刊する雑誌が増えてきた。廃刊を報じる記事を読むと、大抵は『価値観の変化についていけず部数が落ちたため』みたいなことが書いてありますよね。でも、カラーページが主体のグラビア誌に限っていうと、部数が落ちただけでは廃刊になりません。グラビア誌の原価は下手すれば卸値より高いから、むしろ部数が少ないほうが利益が上がる場合もあるんです。逆に言えば、広告収入がない限り、どんなに売れても儲からない。グラビア誌の廃刊が増えたのは、発行部数ではなく雑誌広告が減ったからなんですよ。
 つまり、そもそもの原因は、グラビア誌の原価構造にあるわけです。どんな商品でも、売れたら売れただけ儲かる原価構造じゃないと健全な経営はできませんよね。だから僕が「ホットドッグ」の編集長になって最初にやったのが、原価を下げて定価を上げることでした。当時はまだ『編集は金のことを考えるな』という風潮が残っていたので、守銭奴とか大阪商人とか言われましたけど(笑)」

 さらに原価と出版の関係について詳細に語っていく。山田が目の前の記事を作ることだけでなく、それを世に出す際のシステム、出版業界の構造そのものを意識しながら編集業務を行ってきたことがよくわかる。

 「出版業界の構造的な問題がどうにもならないとわかってしまったことも、僕が会社を辞める一因になったかもしれません」

 退職後、気持ちにどんな変化があったのだろうか。

 「苦手な団体行動をやらなくてよくなっただけで、驚くほど気持ちが楽になりました。会社を辞めてから酒を飲まなくなったんですよ。毎週、ビールを1カートンとウイスキー1本を配達してもらっていたんですけど、急に注文しなくなったので酒屋さんに『どこか悪いんですか?』って心配されて、そういえば飲んでないなと気づいたんです(笑)。周りからは『好き勝手に生きてる』と言われ、自分でもそう思っていましたが、人並みにストレスを感じていたんですね。世の中の管理職の大半は僕よりずっと真面目でしょうから、さぞかし大変だろうと同情します」

 山田は、2011年に食道癌を経験している。原因は今語った「会社員時代に飲んだお酒の蓄積」だったと考えている。

 「主治医からぜひ世間に広めてほしいと言われているので広めますが、日本人にとって食道癌の一番のリスクはお酒だそうです。食道癌の問診票の最初の項目は、『お酒を飲むと顔が赤くなる』。僕を含め日本人に多いこのタイプは遺伝的に、アルコールが分解されてできるアセトアルデヒドをさらに分解する酵素の活性が低いそうです。このため、発癌性物質であるアセトアルデヒドが血液や唾液中に残存しやすく、食道癌のリスクが高まるのだとか。特に強いお酒は食道の粘膜を刺激するので気をつけたほうがいいらしく、僕みたいにビールをチェイサーにウイスキーのストレートをガンガン飲むのはいちばんよくないと叱られました」

 笑いながらそう話す姿からは、癌を患った際にも過度に人生を悲観した様子はうかがえない。

 「幸いにも早期に発見できて、内視鏡手術ですみましたからね。定期的に検診を受けていてよかったと、安堵する気持ちのほうが大きかったくらいです」

 

今、ようやく落ち着いた

 

 退職後にフリーランスの編集者として仕事を始めた際には、なかなか思っていた通りにはいかなかったという。

 「出版不況ってやつを甘く見ていましたね。なんだかんだいって、講談社は恵まれていたんですよ。自分では原価に厳しいつもりでいたけど、世間はもっと厳しかった。雑誌はどんどん減っていくし、予算もどんどん厳しくなっていく。それをわかっていながら自分の身に降りかかるとは予想できなかったのが、僕の頭の悪いところです。会社を辞めて1年くらいで、編集の仕事だけで食って行くのは難しそうだと思い知らされました」

 そこで何か大きな方向転換が?

「いや、とにかく来る仕事をやっていこうとしか考えられず、無策でした」

 何に関しても詳しく、広い分野で活躍している山田のイメージが定着したのには、そんな理由もあったのかもしれない。

 「ここ数年でようやく美術と時計と街づくりに分野が絞られて、落ち着いてきた感じです」

 編集者として美術書や時計に関する本の出版を手掛け、さらに自身のYouTubeチャンネルで美術について解説する番組『山田五郎オトナの教養講座』は登録者数が43万人を超える。
 60歳を過ぎて、好きなことを楽しくやっているように見えるが、ここから先の人生については、どのように考えているのだろう。そう問うと「何も考えていない(笑)」とぶれない答え。
 一昨年、初小説『真夜中のカーボーイ』を出版した際のインタビューでは〈この歳から新しいことに乗り出すより、今あるものをさらに充実させていくことに残りの人生を費やしたいと思っています〉と答えていた。

 「実際、目の前の美術や時計のことで手一杯ですからね。新しい発見や知りたいことが次から次に出てきて、調べても調べても追いつきません」

 例えばどんなことが? とたずねると、森鴎外に関すること、印象派について、スイスの時計業界についてなど、最近の新発見についてわかりやすく語ってくれた。

 「特に美術に関しては、うっかりYouTubeなんて始めちゃったものだから(笑)。学生時代より勉強しているくらいですよ。インターネットのお陰で、僕らが学生の頃には海外まで訪ねていっても簡単には見られなかった一次資料や、世界中の研究者の論文が、日本に居ながらにして閲覧できちゃったりしますから。その点では、今の若者は本当に恵まれていると思います。新しい発見がいくらでもありますからね」

 「若者は」と言いながら、自分自身がその可能性にわくわくしていることが伝わる。

 「悲しいことに語学力が甚だしく落ちているから大変ですよ。自動翻訳がもう少し進化してくれると助かるんですけどね。とにかく、今手に入る情報を見たり読んだりするだけで、一生が終わってしまいそうです(笑)」

 

(了)

 

山田五郎 Yamada Goro

 

1958年東京都生まれ。1982年講談社入社。「TOKYO1週間」副編集長、「ホットドッグ・プレス」編集長などを経てフリーに。著書に『闇の西洋美術史』シリーズ、『山田五郎オトナの教養講座 世界一やばい西洋絵画の見方入門』、『機械式時計大全』など。

 

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