モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第8回は、幼い頃から「全て正確に」「嘘なく」残すことに「強迫観念」といえるほどの強い思いを抱いてきた水道橋博士が振り返る、40歳とは?
2月の取材から3ヵ月後に出馬を表明、今夏、参議院議員になった水道橋博士。8月1日に行った追加取材時のコメントも掲載する。
(取材・文:門倉紫麻 写真:講談社写真部/神谷美寛)
※この記事はモーニング40号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。
本当のことだけを残していきたい
水道橋博士に取材したのは、2022年2月23日。「スラップ訴訟」について、Twitter上で橋下徹氏と松井一郎大阪市長とのやりとりが激しくなっていた頃だ。
そして本稿を書き終えようとしていた5月18日、水道橋博士は参院選出馬を表明。取材中、何度か「自分でやってみる」ことの重要性を説いていた水道橋博士らしい選択だと、驚きよりも納得感を覚えた。
取材が始まってすぐ、水道橋博士が机の上に広げたのは、自身の年表。「決してLiveでは読みきれない 1962→2017 水道橋博士Life年表」とある。新聞サイズの紙8ページに、小さな文字がぎっしりと並んでいる。
「これは17年版なんですけど、20年版はもっと文字が多くて、20万字ぐらいあったんじゃないかな。“無茶で無駄で無料”って言ってるんですけど(笑)、本を買ってくれた人全員にあげていました。今年出す、60歳版はもっとすごい内容になりますよ」
なぜ年表を作ろうと思ったのだろう。
「対談の仕事があると、事前に相手の年表を作るんですが、それならと自分の年表も作るようになりました。年表作りの名人がいるので、日記とか資料を渡して作ってもらって、最終チェックは僕がやっています。ルポライター体質でもあるので、相手の話を聞いていると『今、話盛ったな』とか『それって本当に自分の話なの?』って気になることがあるんですよ。僕も年表を作ってみたら、そう思い込んでいただけで違っていたっていう事実誤認がいくつも出てきたので、そうなるのもわかる。特に、芸人とかプロレスラーは、人を楽しませるために嘘をついたりもしますしね(笑)。それを責めているんじゃないんですよ。自分のことも相手のことも、本当のことだけを残していきたいという決意でやっているだけです」
子どもの頃から「本当のこと」にこだわってきた。
「日記にも『卑怯なことをするのが嫌だ』と書いてあって。歳をとればそれも揺らぐだろうと思っていたけど、60歳近くになってきたら、むしろ俺の『嘘をつきたくない』という気持ちは、嘘じゃないんだとわかった。だんだん自分の言葉に縛られていくということなんですけどね。ずっとお天道様に見られているという感覚があったし、今は僕自身に見られている感覚もある。それならもう隠し事はしないで、全部見せようと思いました。今、ツイキャスを160日近く(※2月23日時点)連続でやっているんだけど、配信中に泣くわ、トイレには行くわ、寝るわで、もう見せていないものがない。強迫観念のようなものだと思います。
Twitter上で『水道橋は、あんなこと言ってるけど免許証偽造で前科があるんだぞ』って言われたりするんですけど、そうしたらすぐに自分で免許証偽造事件の時の画像を上げるんです。誰だって過去に間違ったことをいっぱいしているけど、僕は自分のことも他人のことも全て正確に記録しているし、自分のことは全て公表してもいる。デーブ・スペクターには『だから博士は最強』って言われました(笑)」
取材中ずっと感じられたのが、博士の自分に正直であることへの強い思いだ。自ら「強迫観念」と表現したが、聞いていて時折胸が痛くなるほど、それが切実なものなのだとわかる。
40歳での結婚、というのは人生最大の転機かもしれない
「全て正確に」記録してきた博士にとっては、「40歳の時を語る」本企画はお手の物だ。
「年表の2002年のところを見ただけでわかりますよね。この年に結婚してるな、と」
2002年の欄にはこうある。<6月22日、相棒・玉袋筋太郎の誕生日に入籍〉。40歳になる約2ヵ月前のことだ。
「40歳での結婚、というのは人生最大の転機かもしれない。本で読んできた“通過儀礼”というものを、文字だけじゃなくて体験しなくてはと思った」
2013年のTwitterでは映画の感想と併せて〈大人になれない危機感。ボクも40歳まで続いていたと思う。「結婚して子どもを作って育てよう!」という「決意」そのものが通過儀礼だったということを通りすぎてから気がつく〉と語っている。
博士にとって結婚は、流れなどでするものではなく「決意」してするものだったのだ。
「そうですね。決意をして、結婚した。40歳前に、人生がわかったようなことを言っていたと思うんですけど、結婚すらしていない俺は、実は何もわかってなかったんだ、と60歳の僕にはわかります」
結婚して訪れた最も大きな変化は、ずっと抱いてきた希死念慮がなくなったことだという。
「正確にいうと、結婚して第一子が生まれてから、なくなった。子どもが生まれたら死の棘から解放されるかもしれないと思ってはいたんですが、実際そうなりました。子どもの頃から死ぬのが本当に怖くて。それで希死念慮を持ってしまった。『ソナチネ』で(ビート)たけしさんが言う『あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ!』というセリフの通りです」
子どもが生まれて希死念慮が消えたのはなぜだろう。
「自分は命を受け継いで渡すバトンでしかないんだ、と思ったからですね。渡す相手が現れたことは、すごく大きかったです」
取材時に「書いたばかり」だと言っていた雑誌『統合失調症のひろば』に寄せた「死にたいと言う名のこころの病」ではこんなふうに書いている。
〈たとえ、自分の体が潰えても、自分の「生」そのものである「バトン」を子に託せたという意識が常にあるからです。
「芸」そのものが「命」のように、人から人へと受け継いでいく「バトン」そのものなのです〉
「生は死に至る過程であって、早いか遅いかだけのことだ、と思えた。芸と一緒なんですよね。師匠や先輩たちから受け継いで、次に渡すのが芸です」
思考だけでなく体験を経たから理解できる
第一子・長男誕生の3年後には第二子となる長女が誕生した(その3年後には第三子も誕生)。
「女の子を育てるのも、僕の人生にとってすごく大きいことでしたね。自分には兄しかいないのと、童貞だった期間がすごく長かったのとで、女性のことがずっと怖かったんですよ。だけど女の子を育てる過程において『こんなに早くから、こんなことを思っているんだ』とか、いろいろなことがわかった。結婚して、母ではない女性と一緒に住むことも初めての体験ではあったので、その時から徐々にわかってきてはいたんですが」
ここで、先ほどから筆者も気になっていたことを、モーニングの編集者が質問する。
「ご自分は40歳で結婚して家族を持って変わられたということですが、ほかの人たちが……ひいてはご自分のお子さんたちが結婚しない選択をするとしたらどう思いますか?」
すると「まったくもって自由だと思います」と言い切った。
「僕は結婚して変わったけど、僕の生き方を強制しようとは思いません。子どもたちだけじゃなくて、ママ(水道橋博士の妻)に対しても、ママの人生があるよねと思っています。ママが俺の本棚にあった、桐野夏生の46歳の女性が夫と子どもを残して家出する小説(編注:『だから荒野』)を読んで『私の話だわ』と言っていたのは怖かったし、残された俺はどうなる? とは思いましたけど(笑)。でも、そういう生き方もあると思っています」
女性についての理解を深めることは、博士の中でテーマの1つになっているようだ。2016年には、しばらく継続して女装も行っている。
「僕はもともと、男らしくありたいと思ってたけし軍団に入った。でも石原慎太郎に出会った時に、男だ、男だ!って言い続けていると、こんなふうに威張る男になるんだ、そうはなりたくない、と思いました。それで女装をしてみたんです。ストッキングを毎日履いて毎日化粧もしたんですけど、女の人はこんな面倒なことを毎日やれるんだと、すごい驚きがあった。これも結婚と同じで、思考だけじゃなくて体験を経たから『そういうことなのか』と理解できたんだと思います」
体験することにこだわるのは、師匠から受け継いだ「たけしイズム」だと言う。
「たけしさんは常に『そんなこと言うんだったら、お前やってみろ』って言うし、たけしさん自身もそうしてきた人ですから」
ただ「嫌い」な人はいない。「わかり合えない」だけ
年表や著書から、40歳になる年に交流した人たちが博士の人生に影響を与えていることがわかる。
中学校の同級生であるザ・ハイロウズの甲本ヒロトとは卒業から何度か仕事で顔を合わせていたが、40歳になる直前に対談でじっくりと話をし、そこから交流が始まっている。『藝人春秋』では、対談を振り返り〈同級生のロックスター甲本ヒロトと会った夏。自分が40才の大人になっていくのを自覚した。それは長すぎる思春期の終わりでもあった。/しかし──。いつだって「十四才」になれるんだ!〉とつづった。その1年後、甲本が博士宅を訪れたエピソードも収められている。
「結婚した俺の家に、ヒロトが遊びに来てくれて。対談の時も思いましたけど、お互いの昔話をしながら、ああ自分は大人になったんだなと思いました。ずっと聴いてきたザ・ハイロウズの『十四才』を思い浮かべて、自分は14歳の時にヒロトと一緒にいたんだと思ったし、14歳の自分と比べて、俺は大人になったと感じたんだと思います」
同じ年の1月には、「死ぬまで研究したい」と敬愛する作家・詩人の百瀬博教と初めて対面している。博士が「行動原理」になっているとしてよく口にする「出会いに照れるな」という言葉を発した人物だ。
「(年表を見ながら)そう、その年ですね。〈1月17日、雑誌「スコラ」で百瀬博教と対談。終了後、表参道にある自宅に招かれる。6年間の獄中の勉強ノートを読み、その集中力と向上心に衝撃を受ける〉って書いてある」
百瀬が、出会いについて「怖がるな」などではなく「照れるな」と表現しているのが独特で魅力的だ。
「百瀬さんは『照れるな』という言葉をよく使うんですよ。『金に照れるな』とも言いますし。もともと僕は、大物が近くにいたら、話しかけるどころか顔を隠して逃げるような性格なんです。相手が自分のことを知っているかもしれない場合はなおさらです。でもこの言葉を聞いて以降は『お、石原慎太郎がいるな』と気づいたら『出会いに照れるな』と言い聞かせて、話をしに行くようになった。オビ=ワン・ケノービの『フォースを使え』みたいに(笑)、ずっと自分の中にある言葉です」
博士の人物描写を聞いて(読んで)いると、何度か名前が出た石原慎太郎にしても(ちなみに石原は「お前の文章は三島由紀夫に似ている」と博士を絶賛している)、ただ「嫌い」という感情だけで語っているわけではないことがわかる。
「ただ嫌い、という人はいないです。例えば橋下徹さんも、好きとか嫌いとかじゃなくて『わかり合えない』人なんですよね。前にTwitterでご本人にも『わかりあえないこともわかってください』と返したことがあったんですけど、発言を聞いたり本を読んだりして、この人とはわかり合えない、と思うことはあります。そういう人と俺が対立しちゃうのも仕方がないことだと思う。でも、もし橋下さんが『博士、ノーサイドでちょっと(飲みに)行きませんか?』って言ってきたら俺は『もちろん行きましょう!』と言います。『同席しません』というようなことは、俺にはないです」
文筆家としての才能を証明するために書く、と決めていました
水道橋博士が文筆家として注目され始めたのも、40代に入ってすぐの頃。42歳の時には、『お笑い男の星座2』(浅草キッド名義)が大宅壮一ノンフィクション賞候補の下読みにエントリーされた。
「やっぱり、40歳ぐらいの時に、いろいろなことが変わっていますね。その頃、自分にも長けている部分があるとしたら、書くことかもしれないとは思いました。自分は芸人としては、たけしさん、タモリさん、さんまさんみたいな“王”にはなれないとわかったんです。自分の物語を確認した、というか。ダウンタウンとの共演を解禁したのもその頃(43歳)です。それまでは、自分にはたけしさんという師匠がいて、『忠臣は二君に仕えず』という気持ちがあった。今は、そういう縛りからは楽になっています」
自身で文筆家としての手応えをはっきりと感じるのは、そこから10年ほど先になる。芸能の世界で生きる人々を活写した『藝人春秋』を出版した時だ。『藝人春秋』を書くにあたっては、期するものがあったという。
「うちの相棒の赤江くん(玉袋筋太郎)の存在は大きかったですね。文才があるんです。彼の書いた『男子のための人生のルール』は重松清にも書評で激賞されました。赤江くんの文章は、口語でてらいがなくて……負けた、と思った。なので『藝人春秋』は、俺の文筆家としての才能を証明するために書く、と決めていました。もともと僕は意味を重ねていくような凝った文章を書いてはいたんですけど、『藝人春秋』では構成にも凝ることにして。全体を通して芸人の死生観を描いているので、春夏秋冬と進んでいって、最後に死そのものを描く、という構成にしました。そういう意味では、あの本はいい本だと思います」
刊行後の反響は大きく、まさに才能を証明することになった。
「又吉(直樹)くんの本(『火花』)が出るまで、芸人の書いた本の中でたぶん一番たくさん書評が出たと思う。西村賢太は<私小説に、エンタメ要素を果敢に融合させた新たな手法による本書が立ち現われたことは、特筆すべき“文学的事件”に違いあるまい>と書いている。
自分の本の書評は全部チェックしてますから。本にとって書評って本当に大事なんです。何もない水面にポトンと落とす小石のようなもので……小さく水面を揺らしたら、それが岸まで届くことがあるんです」
死にたくなったら俺を見ろ!みたいな感じです(笑)
今年8月に、60歳を迎えるが「まだ自分には伸びしろがあると思っているんですよ」と楽しそうに言う。
「文章力に関してもあると思うし、芸人としてもあると思っている。もう伸びないと感じたら、どちらもすぐにやめます」
芸人としての伸びしろは、昨年活動の場をテレビの外に広げたことでより強く感じるようになった。
「完全にテレビ局の営業サイドの理由で、地上波のレギュラー番組がゼロになった。その時、後輩から『阿佐ヶ谷ロフトで、ライブをやってください』と声をかけられたんです。『阿佐ヶ谷なので、タイトルは『アサヤン―阿佐ヶ谷ヤング洋品店―』でどうですか?』と」
90年代に浅草キッドが司会を務めたバラエティ番組『浅草橋ヤング洋品店』(95年より『ASAYAN』)をもじった、絶妙なネーミング。
「毎週、ロフトでトークライブをして、それを配信する番組をやることになりました。僕が企画を立てて、脚本を書いて、出演交渉も、お金の出し入れも全部やる。その時に『これができるってことは、俺は結構やれるんだな』と思ったんですよ。あと、お客さんが目の前にいて笑ってくれることが好きなんだなと、あらためて思いました。芸人にとって、ライブってライフなんだなと」
アサヤンが始まった2ヵ月後にはYouTubeにて『水道橋博士の異常な対談~Dr.Strangetalk~』をスタートさせる。
「昔テレビで一緒にやっていたスタッフが集まってくれました。今は採算ベースにも乗ったし、インタビュー芸人としても自分はうまいんだと思えています」
自分の60歳がこんなふうになると、40歳の時に思っていましたか? とたずねると「思っていないですね」と答える。こんなに充実した60歳になるとは思っていなかったという意味だと一瞬捉えたが、「すぐに自分がうつでこんなに苦しむとは予想していなかったですよ」と続いた。
「俺がうつになったのは、3.11以降なんですよね。震災前は(原発を推進する)電気事業連合会の広告にも出ていたので、『原発芸人』と呼ばれるようになった。原発の事故で亡くなった人がこんなにたくさんいる中で、自分には責任がないのか? と考え続けるのが本当にきつくて。震災以降はずっと反原発です。自然再生エネルギーに発明が起こると信じている」
うつで最も苦しい時期に、助けになるようなものはあったのだろうか。
「師がいることですね。マキタスポーツに『博士に軸があるのは、たけしさんがいるから』だと言われました。『揺らぎがあっても漂流しても、ずっと見ていられる北極星があるから人生に迷わないじゃん』と。師匠と弟子という関係を自分が選んだことには、圧倒的に意味があると思っています」
今の世の中で師を持つのは難しいようにも思うのだが……。
「“没後弟子”のように亡くなった人とか、会ったことはない人を師匠とすることもできる。それに、自分より先に生まれている人を師匠や先生と呼ぶことが多いけど、後から生まれた人にも先生はいます。吉川英治の『我以外皆我師』みたいに、この人すごいなと思ったら、それが師匠なんだと思う」
40歳を前に迷っている人に、何か勇気づけるようなひとことを、と言うと「死にたくなったら俺を見ろ、みたいな感じですね」と笑った。
「俺は全部見せていくので。全裸芸人ですよ(笑)。今の40歳の人たちは不安だろうなあと思います。これだけ世の中が悪いとね。40歳から60歳までが結構長いよ、とも言いたいですし……あ、その前に52歳の恐怖っていうのもあるんですよ」
その言葉に思わず、今年で52歳です! と叫ぶように筆者が言うと、「僕も今52歳です」と同席していた編集者も続く。博士は「そうなんですか」と笑っているが、切実な思いで、52歳の恐怖とはどういうことでしょう? と聞く。
「石原裕次郎、美空ひばり、あと東八郎も52歳で亡くなっているんですよ。ロックの世界だと27歳で亡くなるみたいな伝説がありますけど、あれと同じように、日本の芸能界には52歳の伝説がある! と気がついて。それで僕も52歳が怖い、と言っていたんですけど、秘書に『どれだけ自分がスーパースターだと思っているんですか?』と言われてしまいました(笑)。でも文筆家だと中島らもも52歳で亡くなっていますからね……。階段は手すりのある側から降りたりするようになりました。52歳の時に番組の収録中に、帰らせてくれっていうぐらいの激痛が腰に走ったことがあったんですよ。その時はやっぱり52歳で死ぬんだなって思いました。ただ僕は1日4時間ぐらいしか寝ないショートスリーパーだから、延べ実労時間でいうとほかの人より生きてるから! とは思う。睡眠は死ですからね」
おもしろいと思ったものを次の世代に残したい
だから、本を書く
ここまで聞いてきた博士の話には、ほぼすべてにそこに至る経緯や当時の詳細な事実関係、派生するエピソードが含まれている。知識をひけらかすようなものでは当然なく、「正確に伝えるためには、すべてを語らねばならない」という信念と、「自分に正直であること」へのこだわりからくるものだとわかる。さらに事象そのものだけでなく「自分のことを正確に知ってほしい」という思いがあるようにも見えた。
取材終盤になると、SF、歴史、レーシック手術、「人間が脳だけ入れ替えて命が永遠に続く可能性」──と話題がどんどんスライドしていき、カルチャーに詳しい編集者との熱っぽいラリーが続いた。
大人になるにつれ、博士のように好きなものやおもしろいと思えるものを見つけて、それを深掘りするのは難しくなる気がするが、博士の好奇心や創作意欲が一向に減らないのはなぜなのだろう。
「僕は自分が好きなものとかおもしろいと思ったものを次の世代に残したい気持ちがすごく強いんですよ。バトンを渡すという使命感があるし、そのことを楽しんでもいる」
「命」と「芸」に加え、自分が好きなものも、渡すのだ。
「だから本を書くんです。その使命感さえあれば、誰にでもできることだと思う。出版社から本を出すだけじゃなくて、今はブログもnoteもありますから。何かをおもしろいと思えるスイッチも、どこにでもあるんですよ。さっき話した散歩の時も、例えば国道1号線を歩いているのなら『江戸時代は乗り物に乗らず、こうやって歩いていたんだろうね。そしたらお前は弥次さんで、俺は喜多さんだな』っていう話になったりするんですよ。そこから『坂本竜馬なんて、あの高知山脈を越えて歩いて来てさ……』なんて話にもつながっていきます」
取材後、取材陣に名刺が渡される。
「会社の名刺じゃなくて、個人の名刺です。ここに載っているのは自宅の住所ですから。いつも『ネットに載せてください』って言って渡すんですよ。俺に個人情報はない(笑)」
悩み続けた末に、すべてを見せて生きると決めた人らしい、清々しさがあった。
2022年7月10日、れいわ新選組から立候補していた水道橋博士は、比例代表で当選。参議院議員になった。
8月1日、2日後の初登院を前にした水道橋博士に追加取材を行った。
──2月の取材時に、政治の世界に入るという考えはありましたか?
水道橋博士(以下、博士) まるでなかったと思います。5月15日、街宣中の山本太郎に、博士自身が議員になって反スラップ訴訟法を作ってはどうか、と言われた瞬間に決めました。
──40歳の自分がこのことを知ったらどう思うでしょう。
博士 まさか、まさかでしょうね。60歳からは静かに仕事を減らしていくイメージだったので、真逆の最前線に立った感じです。
──今後の活動への不安や緊張は?
博士 選挙戦で日本中を回って演説をしましたが、全く物怖じすることがなくて。文書を用意しなくても言葉が出る。芸人の仕事で訓練ができていた。選挙戦の前は「全く違う生活が始まる」「一線を越える」と思っていましたが、芸人の日常の延長だとわかりました。国会の本会議場を見ても「大きい劇場だなあ」と思うくらいです。
──「全部見せる」という姿勢は、政治の世界でも変わらないでしょうか。
博士 選挙運動中も「可視化」がキーワードでしたし、今後もモットーにしたい。今、人と会う時も「誰と会ったかは言わないでほしい」と言われることがある。でも「それなら僕とは会わない方がいいですよ」と言っています。
1962年岡山県生まれ。ビートたけしに弟子入り後、フランス座での住み込み修業を経て1987年に玉袋筋太郎とお笑いコンビ「浅草キッド」を結成。著書に『藝人春秋』シリーズなど。れいわ新選組所属参議院議員。
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