40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【山本昌】

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第3回は40代で引退する選手も多い中、41歳でノーヒットノーランを達成し、50歳まで現役を続けた元中日ドラゴンズ投手・山本昌。32年間体と技術を磨き、戦い続けててきた人ならではの、明快なアドバイス。

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第3回は30代で引退する選手が多い中、41歳でノーヒットノーランを達成し、50歳まで現役を続けた元中日ドラゴンズ投手・山本昌。32年間体と技術を磨き、戦い続けてきた人ならではの、明快なアドバイス。
(取材・文:門倉紫麻 写真:講談社写真部/柏原力)

※この記事はモーニング30号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

40歳は会社員に置き換えると「もうすぐ定年」の年齢です

 

 「ベテランになったなあと思いました」

 50歳で野球選手を引退し、現在56歳の山本昌は、40歳の時をそう振り返った。

 「プロ野球、プロスポーツの世界では、40歳まで現役を続ける方はなかなかいないので、会社員の方に置き換えるともうすぐ定年という年齢だと思います。体力的には、30代と40代でそう変わらなかったんですよ。でも自分の意識とかチーム内での立場はこれから変わっていくんだろうなあ、いろいろと覚悟しながらやろう、とは思いました。体力や実力が同じぐらいなら伸びしろがある若い選手を使うはずなので、若い選手たちにしっかり勝っていかないといけない、と。毎年、『今年で終わりかな』という危機感を持つようになったのも40歳ぐらいからですね。球団に契約してもらえないと、プロ野球選手でいられませんのでね。30代まではそんなこと考えたことがなかった。結局そこから10年やるんですけれど(笑)」

 40歳の年にはやや不調の波がきたものの、翌年、41歳でノーヒットノーランを達成(2022年現在もプロ野球史上最年長記録)している。

 「調子が良ければまだ勝てるんだよ、ということは40代前半で示せたなと。自分の(体の)調整方法とか、そこまでやってきたことは間違っていないんだと自信がついたのもこの頃だと思います」

 40歳で活躍できるということは、20代、30代で、それが可能になるように体をメンテナンスし、トレーニングをし続けてきたということだ。

 「長く続けるためには、いかに故障とつきあうかが大事なんですよね。若い頃は、すごい先輩たちがなぜ30半ばで辞めていくのかなと不思議に思っていたんですが、自分もその年齢に近づくとわかってくる。怪我をして治っても、パフォーマンスが戻らずにそのまま数年して引退する、ということがすごく多いんです」

 30歳で膝をケガした山本は、その後のトレーニングに大きな影響を与える、「初動負荷理論」を考案した小山裕史氏と出会う。

 「このトレーニングを始めたら、すぐに調子が良くなって。そこから全面的に信用してついていきます、ということになりました。イチローくんや岩隈(久志)くんも長く先生のところでトレーニングしていたんじゃないかな」

 指導をただ受けるだけではなく、小山氏とはたくさん「ディスカッション」をしたという。

 「小山先生自身は、野球経験はないんですよ。でも体の使い方に関しては本当によく知っていらしたので、先生の話を全部聞いたうえで、『でも先生、マウンドではこれはちょっとできないかもしれません』と話をしていました。僕が実際に野球をやっている時の動きと、先生の知っている体の使い方をすり合わせる。一緒に食事しながら話をするのがすごく楽しくて、理論もどんどん頭に入っていきましたね。そのうちに、どう体を動かせばいいのかという『基本』について、僕も人に説明ができるようになったんです。『このくらいのこと、基本だろう』と済ませることって、野球に限らず会社の仕事でもよくありますよね。でも意外と基本については説明できない」

 説明できるようになったのは、山本の言語化能力の高さも関係しているのではないだろうか。

 「僕の性格が関係しているかもしれないです。何かを知ろうとしたら、最後までちゃんとわからないと気が済まない、突き詰めたいタイプだと思うので」

 

ラジコンカーのように自分の体をセッティングしたいと思った

 

 野球に関すること以外でもその姿勢は変わらない。

 「よく多趣味だと言われるんですけど、そうじゃなくて好きなことに飽きないタイプ。一度好きになったものはずっと好きで、小さい頃からやっていることが変わらない。例えば中国の歴史小説や歴史マンガが大好きなんですけど、何十回も読み返すんですよ。マンガの『三国志』(潮出版社)は60巻あるんですけど、1巻から3巻まで読んだら1ヵ月後にまた1巻から4巻まで読んで……と読み進めていって60巻まで読んだりする。だから僕は皆さんがそれ誰? っていうような雑兵の名前まで覚えています(笑)。『ドラゴンボール』(集英社)とか『魁!!男塾』(集英社)とか少年マンガも好きで、半年に1回は全巻読むみたいなこともしていました。世間的には常識知らずかもしれませんが、自分が好きなこと、自分に必要なことはわかるまで調べたりする。ちょっと偏った人間だとは思います。でも狭い世界の中ではいろんなことを知って、引き出しを増やすことはできた。それが野球にも生きたと思います」

 そんな山本が趣味の域を超えて、長年力を入れてきたものの一つがラジコンだ。2002年の全日本選手権では4位に入ったほどの実力を誇る。ラジコンとの出会いも30歳。小山氏と出会う、少し前だった。きっかけは、膝をケガして時間を持て余した山本が、ふらりとラジコンサーキットを訪ねたこと。

 「そこにいた方たちが、ものすごく一生懸命にラジコンのセッティングをやっていて驚いたんですよ。走らせる度に、セッティングを変えていた。何百か所もセッティングするところがあるんです。あんなに速く走っているのにまだ速くできるんだ、まだ上があるんだ、と。彼らはセッティングを変えるのを怖がらないんですよね。『何を変えたの?』と聞くと『ここを変えたら良くなりました』と教えてくれて。メカニックについてすごくよくわかっているんだなと思いました。それを見て、俺はこんなに自分の体のことを研究しているだろうかと疑問がわいてきて……。当時の野球界は、調子が悪かったらたくさん走って汗をかいて、たくさん投げ込んで調子を上げろ!というような考え方が主流だったんです。それはそれで間違いじゃないんですけど、外側から体をセッティングするという考え方はほとんどなかった。僕も泥だらけになって、一生懸命走るような練習はしていましたけど、ラジコンのセッティングのようにこうやったら曲がるようになるとか、姿勢が安定するとか、メカニカルな視点で体を調整するようなことは勉強したことがなかったし、根っこの部分がわかっていなかったんですよね。僕もこうしたら球が速くなるとかコントロールが良くなるとか、彼らが車にしていることを自分の体でやれたらと考えるようになった」

 そのタイミングで、小山氏と出会ったのだ。

 「小山先生はメカニックの天才ですからね。ラジコンのセッティングのすごさを感じていた時に小山先生と出会って、バババーッといい流れができました」

 何の気なしに訪れたラジコンサーキットで、ただ趣味を見つけるのではなく、そこにいる人たちから学び、自分に取り入れる──一流選手であることにあぐらをかくことなく、素直に学びとることができるのはなぜなのだろう。

 「あの……お山の大将だった時がないからじゃないですかね。僕は〝怪童〟と言われるようなこともなかったですし、小学校中学校は補欠でしたし。野球は中学でやめようかと思っていたぐらいなんです。甲子園にも行っていませんし、プロに入っても5年目まで勝てなかった。だから28歳と29歳で連続で最多勝を取った時も『いや、これはまぐれだ』ぐらいに思っていましたから」

 「まぐれ」と言う言葉を聞いて、同席している、高校まで野球部に所属していた編集者から「おおお……」と声が漏れる。

 「誰にでも好不調があって、紙一重の中で勝負をしている。少しでも調子が落ちたら勝てなくなる。そういうしのぎ合いの中で、取った最多勝は、僕がほんのちょっとリードしたというだけのことなんです」

 

40歳からは毎日動いて、体に油を差しておかないといけない

 

 〈40歳からは〝心技体〟ではなく〝体技術心〟〉。そんな見出しのついた文章が、自著『山本昌という生き方』(小学館)に収められている。もともと野球選手として〈一番大切なのは、体。まずは、プロ野球の世界で戦える肉体を維持することが重要だ〉と考えてきたが、〈特に40歳を過ぎてからは、プライベートタイムのすべてを体のケアのために充てていると言っても過言ではない〉。

 「もちろん〝心〟も大事ですが、まず〝体〟がしっかりしていないとスポーツができないですし、そのうえで〝技術〟がないと勝てない。マウンドという鉄火場でやれるかどうかの〝心〟は、体と技が備わっていれば後からついてくるものだと思っています。40歳からの最後の10年は、休みの日を作らなかったんですが、それは体を壊さないためなんですよね。休むと壊れちゃいそうだったので」

 休むと壊れる、というのはどういうことなのだろう。

 「油切れしてしまって、動き出しで怪我をしそうだなと。40歳からは毎日動いて、体に油を差しておかないといけない。そうやって自分がやれる道を探って、調整の仕方をしっかり身につけられたのが40代かなと思います。どこまでやったら壊れるのかとか、これぐらいなら大丈夫とか、自分でわかるようになりました。常に自分の体にアンテナを張っていないといけないんだと思います」

 体に自分でアンテナを張るのはもちろん、技術に関してもキャリアを重ねるごとに周囲から何か言われることは減り、自分で磨くようになっていた。

 「技術的なことは、連続で最多勝をとって以降は、コーチの方から何か言われることはほとんどなくなっていました。そんな時もやっぱり小山先生がいたことはありがたかったですね。先生のおかげで常に技術を追求して、50歳になっても新しいことにチャレンジできたのも幸せでした。野球には〝100点〟がないんですよ。ピッチャーだったら1球もバットに当てさせないで空振りを取る、バッターだったら全部ホームランを打つ、というのが100点だと思うんですが、そんなことは起こらない。技術に100点はないし、だからこそ少しでも100点に近づこうと追求し続ける。自分では50歳の時が一番技術が高かったと思いますね。技術には終わりがないということだと思います」

 

辞めるのが怖かったのも、現役を続けた理由の一つ

 

 山本の言葉は常に明快だ。何か質問をした時に、言いよどむことがほぼなく、揺るぎなさ、安定感を強く感じさせる。「何かを知ろうとしたら、最後までちゃんとわからないと気が済まない」と語っている通り、自身の野球人生についてこれまでたくさん考え、話してきたことで既に多くの「答え」を持っているように見えた。体を使い、技術を磨き、勝負の世界で32年間生き抜いてきた人なのだ、と改めて思う。
 そして、それだけ長い間現役を続けられたのは、体と技術が充実していたからだけではもちろんない。「後からついてくるもの」である〝心〟にも理由があった。

 「辞めるのが怖かった、というのが一つあると思います」

 少し意外な「怖い」という言葉が出る。

 「40歳を過ぎた自分が野球を辞めて、何ができるんだろう? と思ったんですよね。会社勤めはできるかな? とか、何か収入源はあるだろうかとか……。今はこうやって評論家とかスポーツコメンテーターとして講演会でもお話をさせていただく立場になりましたけれど、現役時代は自分にそういう需要があるのか、自分にできるのかわからなくて怖かったです。だったら、今自分が知っている野球を1年でも長くやっていこうと思いました。しがみつくわけじゃないんですけど、少しでも長く野球がしたいなと」

 40代半ば頃からは、さらにもう一つ、辞めないでいる理由ができたのだという。

 「周りの方に『同世代です』『励みにしています』とすごく声援していただけるようになったんです。そこから50歳までは、僕がその声援を励みにしていました。そんなふうに言ってもらえるなら、1年でも長く頑張らなきゃと思いましたね」

 編集者が「辞めるのが怖かったという言葉が印象的なのですが……実際今のお仕事をされてみていかがですか? 楽しい部分もあるのでしょうか」と尋ねると「楽しい、という感覚はないですよね。仕事なので」と、ここでも明快かつプロ意識を感じる言葉がすぐに返ってくる。

 「楽しくお伝えする、ということは考えています。まだまだ伝え方も勉強しなきゃならないですが、慣れてはきましたね。以前から司会者の方がいたり、こうやってインタビュー形式で話したりする分には問題なかったんですが、講演会のように自分一人で演台に立って喋り続けるなんていうのは絶対無理だと思っていたんです。でも今は『90分で』と言われたら『はい、わかりました』と言えるぐらい、時間の感覚もつかめるようになりました。ただ毎回、事前に何を喋るか、ノートに書くようにはしています。講演中に見るわけじゃないんですけど、何だっけ? となった時に見られるように置いておいて、保険をかけておく。壇上で真っ白になったことはないです」

 キャリア形成についての話になってきたところで、山本自らモーニング読者向けに話を広げていく。

 「モーニングを読んでいらっしゃるのは社会人の方が多いですよね。今は、一つの会社にとどまらない方もたくさんいるじゃないですか。それ自体は悪いことではないと思うんです。でも望んでいなかった会社に就職したから、思ってもみなかった部署に異動になったからといってすぐに辞める、というのは僕は違うように思うんですよ。今いる場所でどうやったら自分の才能を発揮して戦力になれるか、どうやって実績を残すかを考えないと、どこにいっても一緒だと思うんです。そういう意味では、僕も喋ることについて、少しは勉強したつもりです」

 自分が望んでいなかった場所に今いる人が、そのように気持ちを切り替えるにはどうしたらいいのだろう。

 「諦めたら終わりですよね。僕の性格なのかもしれませんが、決まったことならそこで頑張る。腐ってもどうしようもないので。働き盛りの時に、『ここではやる気が出ない』と言っていたら、そこで潰れちゃうと思うんですよ。いる場所でやるべきことをやって、自分の仕事を探す。そうしていれば、必ず見ている方がいらっしゃると僕は思います」

長い現役生活を支えた伝家の宝刀・スクリューの握り。

 

よくあんなところで投げていたな、と思う

 

 現在、野球解説者として年間数十試合、放送席に座っている。そこからグラウンドを見ていて思うのは「よくあんなところで投げていたな」。

 「登山家の方が下山して頂上を見ると『よくあんな高い所まで行ったな』と感じるのと近いと思います。『今の選手たちはすげえなあ。俺もあんなことやってたのか?』みたいな(笑)。現役時代の僕と今の僕は別人のようですね。もう俺の届かない世界だなと。現役の頃は、年齢はそれほど気にしていなかったんです。50歳だからってハンディキャップをくれるわけでもなく、同じように戦うわけだから。でも今解説席から見ていると、よく50歳までやったなあと思いますね」

 「一番技術が高かった」時に引退したと考えると、試合を目の当たりにした時「自分だったらこうする」と入り込んだ見方をしてもおかしくはないが、あくまでも引いた目線で見ていることがわかる。やり尽くしたという思いがあるからなのだろうか? と尋ねると「やり尽くしては全くないですね」とまたもきっぱり。

 「先ほど言ったように突き詰めなきゃ気がすまないタイプの人間なので、まだまだやりたいことは多かったし、やれたこともいっぱいあった。けどね、時間は戻ってきませんし、うん、精一杯やってきたという自信はあるので」

 引退会見の〈後悔はしていないです。でも、もっとやれたな、もっとこういうふうにしておけばよかったっていう悔いは、たくさんあります〉という言葉を思い出す。

 「やることはやったはずだ、と。結果的にできなかったことはあるけど、過程には全く後悔はない──そういう意味で言った言葉ですね」

 監督やコーチなど指導者としてプロ野球の現場に戻ることも、もちろん考えているという。

 「これだけ野球にお世話になった人間なのでね、後進に自分の技術なり考え方が少しでも伝わればと。こればっかりは運と縁の問題なので、お話があればということなのですが。いや誘っていただいたこともあるんですが、もうちょっと勉強したいという気持ちもある。でも6年経ってしまったので、そろそろ何か野球界に還元したいなとは思います。その日のために、野球を勉強しながら解説をしていますね。ピッチングコーチとしてもまだ臨時で1シーズンしか戦ったことがないので、1年通して戦って、勉強したいです」

 「勉強」という言葉が何度も出る。これだけのキャリアがあっても勉強が必要だと考えているのだ。

 「もっと言うとね、勉強してもだめな部分もあるんです。僕はピッチャーだったのでピッチャーのことはよくわかるんですけど、内野手や外野手の守備位置、バッティングについてはわかっていないことがたくさんある。素晴らしいアマチュアの指導者の方たちがたくさんいますが、そこに関しては彼らの足元にも及びません。なので、ピッチングについてよくわかっている人と一緒にやれればいいなと思いますね」

 

40歳は、踏ん張りどころだと思います

 

 編集者から、「ヤクルトの石川雅規投手のように40歳を越えて現役を続けている、昌さんの後に続く選手にはどんな言葉をかけられますか?」と野球好きらしい質問が出る。

 「石川くんとは特に親しくさせてもらっているんですが、いつも『石にかじりついてでも200勝しろ』と言っています。僕が長くやってこられたのは、工藤公康さんという僕より年上のピッチャーがいたからなんですよね。一緒に現役を続けて、工藤さんは48歳で引退して、道を作ってくれた。その後に、僕が50歳までの道を作って、今それを後輩たちが歩いてきている。彼らには自分が納得するまで頑張ってほしいですね。石川くんもそうですけど、和田(毅)くん、内海(哲也)くん、能見(篤史)くんと今40歳を超えているピッチャーには、僕と同じ左ピッチャーがすごく多いんですよ(笑)」

 ではこの記事を読んでいる、40歳を前にして不安に思っている人たちに何か声をかけるとしたら、「大丈夫だよ」なのか「大変だよ」なのか、どちらでしょう? と聞くと「大変なんじゃないですか」と言ってすぐに「でも、大変な方が、やりがい、あるでしょう?」と急にトーンを変え、笑いを含んだ声で続けた。

 「ここから先、50歳くらいになったら管理職になる人たちも増えるでしょうしね。40歳は踏ん張りどころじゃないかなと思います。30代までは上司の言うことを聞いて、40代も……上司の言うことを聞くかもしれませんけども、今度は自分が人を引っ張る立場になる準備をしなければいけない時期ですよね。だからここから大変になると思いますが、『大変ということはやりがいがあるってことじゃない?』と捉えたらいいと思う。そういう時だからこそ、自分はこれをやりたい、これをやるんだっていう生きがいを探してほしい。仕事じゃなくて家族のことでもいいし、趣味でもいい。40代は張りのある生活をして欲しいなと思うし、50でも60、70でも『もうやることないな』っていうんじゃなくて何か一つ楽しみを探してみてほしい。仕事で手一杯な方もいるかもしれませんが、何か自分の楽しみがあることが、モチベーションを保つ要因になると思いますので」

 自分のこれから先――60、70歳は見えているのだろうか。

 「どうですかねえ。まあ野球には携わっているだろうなと思っています、はい。星野(仙一)監督に引退を報告した時は『お前、これだけ野球に世話になったんだから、これからは野球のことだけ考えて死ね』と言われましたので(笑)、そういうことになると思います」

 

山本昌 MASA YAMAMOTO


1965年東京都生まれ。日大藤沢高校卒業後、1984年中日ドラゴンズ入団。最多勝3回、沢村賞受賞。41歳1ヵ月でのノーヒットノーラン達成はプロ野球最年長記録。2015年の引退後は、主に野球解説者として活躍。2022年野球殿堂入り。

 

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