コミックDAYSインタビューシリーズ
第2回 「松浦だるま」(1)
取材:構成=木村俊介
幼少期、漫画家を目指すきっかけ、傑作の誕生秘話──。
なかなか表に出てこない漫画家の真の姿に、かかわりの深い担当編集と共に迫る。
漫画家──松浦だるま 作品に『累』『誘』など
編集者──永尾拓也 二代目担当編集者
第1回 なにかは捨てなければならないけれど
芸大入試後も、新人賞受賞後も、漫画を描けなくなってしまって……
松浦だるま 小さい頃からちょこちょことした漫画は描いていたんです。原稿用紙にではなくノートに。小学生の頃には、ノートに何冊ぶんも「連載」をして友達に読んでもらっていました。中学生ぐらいで初めて原稿用紙に描いてはみたんですが、それも「試しに」みたいな感じですね。
漫画家にはずっとなりたかったんですが、そのうち「美術系の大学に進学したほうが、選べる進路も多くなるんじゃないのかな」と考えるようになりました。漫画「だけ」に決めてもいいのかという怖さがあった。職業漫画家として食べていけるのは一握りだと想像していたので。
だから、進学するまでは「漫画家になるかならないか」を保留にしたんです。でも、芸大(東京藝術大学)を目指して3浪した体験は大きかったですけどね。現役時代も含めたら4年間、歳月のぶんだけ「絵を否定され続けた」気持ちが残りましたから。
当時の芸大は入試の内容も変わっていましたからね。上野動物園に連れていかれて動物を描きましたが、雨天決行の中で雨になり、画材も自分も濡れまくったんです。傘が1本支給されるんですが、絵しか守れず、しかも油絵だからぜんぜん乾かないという(笑)。
入学試験が終わると、その時に描かれた絵はたぶんバキバキに壊されて廃棄されるんですよね。不合格になり続けて「私はだめだ」と思い続けた時のイメージは、まさにそんな「壊された絵」でした。
そういう4年間を経たら、その後、別の美大に進学することになっても「自分はなんてだめなんだろう」という感覚になってしまい、漫画もイラストも描けなくなっていたんです。「自分はだめだ」という感覚は、いまも少し残っているんですけど。
永尾拓也(二代目担当編集者) 漫画を描くのを再開したのは、いつですか?
松浦 漫画は基本、線で絵を描くものですよね。でも、デッサンは線の要素もあるものの、基本的には面でものを描く技法です。その訓練を重ねる途中で、私はいったん線を捨てました。浪人時代「面で描くものだけに集中せねば」と強く思ったので。
それで大学に入ってからも、しばらく「線」に戻ってこられなかった。でも、描くうちに「自分は線の人間なんだ」と深いところで思うようになったんです。その後、美大は事情があってやめてしまうんですが、中退直前、油絵を描くキャンバスに面でなく線で絵を描いてみました。その絵は、今も職場に貼ってあるんです。
永尾 (職場に貼ってある絵を見ながら)あ、これですね。『累』の単行本の最後、おまけページで出てくる松浦さんの自画像の顔のままのキャラクターが描かれている。
※単行本のおまけページに登場する松浦氏の自画像。
松浦 漫画の自画像はこの時から同じ顔です。浪人時代のことを、キャンバスの中に小さいコマをたくさん作って描いたんです。ようやく、また、線のみで構成する絵が描けるようになりました。
中退も…結果的にはやめて良かったと思うんです。もう、漫画をやるしかなくなってようやく最初の投稿作を描きはじめたので。24歳ぐらいの頃だと思います。浪人を何年もしていると、年齢がわからなくなる(笑)。25歳の時に賞をいただいて、28歳で『累』の連載がはじまりましたから、たぶん、それぐらいなのかな……?
最初の投稿作『チョコレートミントの初恋』は、1話を通して描くのがはじめてで「探り探り」描きました。昭和の漫画ばかりに影響を受けた古い絵柄で、初代の担当さんから、「もっと現代の漫画も読んだほうがいいね」と言われた記憶があります。
投稿2作目の『雪女と幽霊』は、憧れていた西村ツチカさんのようなおしゃれで味わい深い線の作品を目指したつもりでした。いまも好きな作品だけど、描くまでにはかなり時間がかかってしまった。最初の投稿作で新人賞を受賞してから1年も経って、担当さんとあまり話もしないまま出したものです。
※『雪女と幽霊』より。この作品で第19回イブニング新人賞・宇仁田ゆみ大賞「優秀賞」受賞。
漫画には「特定の年齢の時にだけ描ける内容」も、あるような気がする
永尾 新人賞を受賞してから次の作品を描くまでの1年間には、どんな事情があったんですか?
松浦 遅くなったのは…言い訳ですけど、生計を立てるために事務の仕事をしていたのと、ひどい出来ではあったんですが携帯コミックに少女漫画を描いていて、それに時間をかけてしまったこともあります。
携帯コミックは1年間で約100ページ描いたんです。報酬面のシビアさについては携帯コミックの編集者さんからきちんと説明があり、その上でこちらも了承していたので問題はないものの、それでも、それだけ描いてギャラは1年で1万円(笑)。このままでは漫画を生業にはできないだろうなぁと感じました。
ただ、当時はそういう経済的なことよりも、まず体験が欲しくて100ページをガーッと描いたことで、本当に鍛えられたという感覚があったんです。
永尾 話は戻りますが、最初の投稿を「イブニング」にした理由はなんでしたか?
松浦 携帯コミックでは原作つきの漫画を描かせていただいたんですが、その原作者さんに「出版社に持ち込みにいく勇気がない」なんて話をしたら、「コミティアに出張編集部が出ている。それなら持ち込みやすいんじゃないか」と教えてもらったんです。
コミティアに出しているベテランの漫画家さんを紹介していただき、投稿作を見てもらって「あなたはここに行きなさい」と言われたのが、「イブニング」「IKKI」「COMICリュウ」でした。ただ、私が現地に行った時に「IKKI」は受付が終わっていた。「リュウ」ではアドバイスはいただけましたが、特に進展はなかった。
「イブニング」では、最初の担当さんになる方に出会って読んでもらったんですが、「ちょっと直して賞に出してみよう」と名刺をいただいたんです。そこで見つけていただいたという感じでした。
その時に担当さんからいただいたアドバイスは、「ページ数を減らそう」とか「ここは原稿が白いから直そう」などの普通のことばかりです。絵もつたなかったけれど、担当さんはほとんど気にされていなかった。
新人はそのぐらいでいいのかもしれません。量を描くほど良くなりますし、無駄になる絵は一枚もないと思います。描いたぶんだけ、いろんなことを考えて発見してうまくもなれますから。
それと、連載を始める前に大事だったのは、プロの漫画家さんへのアシスタント経験を積めたこと。それが、私の絵を大幅に変化させてくれました。描くことも大事なんですけど、見ることはもっと大事です。
プロの原稿を生で見る経験は、とくに新人にとっては、自分の中の「完成稿のイメージ」をぐっと引き上げてくれるように思います。
永尾 どなたのところでアシスタントをされていたんですか?
松浦 主には青木幸子さんと国広あづささんです。担当さんに「イブニング」で連載されていた青木さんを紹介してもらい、青木さんのところに行ったことで国広さんに縁がつながって。そこでプロの原稿を見て、「印刷する前の線ってこういう強弱なんだ」みたいに感じたんです。
漫画って線だけで構成されているから、「原稿の上だとこういう太さで線が載ってるのか」というような「感じ」をつかむのが大きいんですね。それに、私は漫画家に憧れて、漫画家ってかっこいいと思ってきたから、具体的に「漫画家さんってこんなところでこんなふうに描いているんだ」という根本的な感動もあったんです。
国広さんのところでは、当時、SF美少女ギャグ漫画を連載されていながら、職場のBGMがずっと怪談というのが最高でした。稲川淳二さんとかの朗読がえんえんと流れているという(笑)。会話もほぼなく、怪談だけが聞こえてくる空間は居心地が良かったですね……。
どちらの職場にも良い人が多くて、当時出会った中には、いま、うちでアシスタントをしてくれている人もいます。そういう生活の中で、自分の作品としてはネームばかりを描いていたんです。
7つほどあったプロットの1つである『雪女と幽霊』を新人賞に応募することになるんですが、実は、そうやって思いついて担当さんに見せたお話の中には、もうすでに、いま連載している『累』があったんですよ。
永尾 2作目を投稿する前に、もう『累』を思いついていたんですか?
松浦 はい。キスをしたら顔が入れ替わるというアイデアを思いついて「恋愛感情もないまま、憎み合っている女どうしがキスしている絵」を描いていたら、「お、これはかっこいいかもしれないな」とストーリーが出てきたという。
※『累』第1話より。このシーンにつながるイメージからすべてが始まった。
その後、2作目を描いた後には『累』を描きたいと思うようになったのですが、発想してから日の目を見るまでには、本当にすごく時間がかかったんですよね。いや、時間がかかったというよりは、正確には仕事をしながらなので、日常の雑事に紛れて漫画を進められずにいたという感じです。
でも、おかげで、ちょいちょい推敲しながら進められました。その『累』の原形は、はじめは『羨望のカラス』という題名だったんです。ただ、アイデアを寝かしながら日常を過ごすうちに知識が入ってきて……江戸時代の絵にまつわる本を読んでいるうちに『累ヶ淵』という怪談に関する資料を多く読み込むことになったんです。
醜い女が醜さゆえに殺され、霊になって祟るという怪談。ここに絡めたらすごくいいんじゃないか、と。
永尾 3作目で連載までつながる作品として『累』のアイデアを選んだ理由は、なんだったのですか……?
松浦 思い浮かんだ7つの案の中には、担当さんに「これいいね」と言ってもらえたアイデアが3つぐらいありました。実は、その時にいちばん描きたかった漫画は、2作目の『雪女と幽霊』とも3作目の『累』ともぜんぜん違うものだったんですが。
ただ、その後は1年間まるでなにも出せなかった……。「もうだめだと思った」と、あとで担当さんから言われたんですが。でも、時間が経っていく中でも変わらず描きたかったのが『累』だったんです。
かかった時間が結果的には熟成につながって良かったとは思うんですけど、ただ、他の新人さんへのアドバイスに「1年間おいたほうがいい」とは絶対に言えませんね……(笑)。
永尾 「時間が経ってしまった後に編集者に連絡をしても、まだ可能性は残っている」といういい実例になっていますね。
松浦 ただ、そうやって時間をかけたことに対しては、思うこともあるんです。長所と短所がありますから。良かった点は、作品の内容を熟成させられたこと。『累ヶ淵』について知るなどといった決定的なインプットができたのは、確実に良かった。
だけど、後悔したこともあったんです。これが、悪かった点。
たぶん、漫画ってその年齢の時にしか描けないものがあるんだよなぁ、と言うか……。「若いからできる」とかいう話でもなく、25歳には25歳、30歳には30歳、それから、今の自分より上の年齢でも、おそらく60歳には60歳、というように、それぞれ「その年齢だから描ける漫画」もあるのではないでしょうか。
さきほど、お話のアイデアをいくつも思いついたと言いましたよね。当時、その中で「このアイデアは寝かしておこう」というネタもあったんですが、実は、その時に描きたかった感覚は、もう、あとになったらわからなくなったんですよね。きちんと記して残しておいたのに。
少なくともあのアイデアは、思いついたその時にすぐアウトプットしておかないといけなかったのだなぁ、と後悔しまして。もちろん、なにかに時間をかけるからには、別のなにかを捨てなければならないのは確かなんだけど、そういうことは痛感させられました。
(つづく)