40'sランドスケープ~40歳の景色~ インタビュー【吉田類】

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第12回には『吉田類の酒場放浪記』(BS-TBS)で飲み歩く姿が多くの人から愛される、吉田類が登場。欧州での画家生活、30代での大きな喪失、山での経験など“酒場詩人”が誕生した経緯に迫るとともに、40代で身に着けるべき酒場での振る舞いについてもたっぷりと聞いた。

モーニング40周年を記念して各界の著名人が40歳の自分を振り返るインタビューシリーズ、第12回には『吉田類の酒場放浪記』(BS-TBS)で飲み歩く姿が多くの人から愛される、吉田類が登場。欧州での画家生活、30代での大きな喪失、山での経験など“酒場詩人”が誕生した経緯に迫るとともに、40代で身に着けるべき酒場での振る舞いについてもたっぷりと聞いた。

(取材・文:門倉紫麻 インタビュー写真:村田克己(講談社写真部)

※この記事はモーニング7号に掲載されたインタビューのフルバージョンです。

自作のぐい呑みを片手に。

最近、旅先で猫の夢を見るんですよ。これはヤキが回ったかなと(笑)

 

 訪ねたのは、東京郊外の高台にあるマンション。街を見渡せる広々としたテラスには大きな花壇もあり、いつまでもいたくなるような気持ちのよい場所だ。だがここは吉田類の拠点の一つでしかない。イラスト作成やエッセイの執筆といった創作活動のためのアトリエなのだという。

 「ここ以外にも都内に事務所があって、北海道にも仕事場があります。最近は動き回っているのでホテルも多いですね。しばらく北海道にいて、戻った翌日には高知に日帰りで行って、またここに戻ってきたところです。明日は東北ですね」

 一か所に落ち着くことのないこの生活スタイルを20代の頃から、73歳の現在まで続けてきた。

 「子どもの頃から冒険好きでしたね。いろんなところをほっつき歩いて、母親に諫められていました。放浪癖みたいなものはいまだにある。家庭を持つ、という経験もほとんどないですし。自分でも、いびつなんだろうとは思いますが、そういう生き方が性に合ってるんだなと。ただ猫がいるのでね」

 このアトリエにも、かわいらしい猫が2匹。

 「事務所にも2匹いて、猫の面倒をみるスタッフもいます。家庭は持っていないですが、猫4匹分の養育費は払っています(笑)」

 猫がいることで、ただ放浪するのとは違い、つなぎとめられているような気持ちにもなるのだろうか。

 「最近、旅先で猫の夢を見るんですよ。これはヤキが回ったかなと(笑)。吟遊詩人を気取って酒場を周ったり、山に登ったりしているのに、里心に苛まれるようじゃあ情けないですね」

 取材翌日の東北行きは、2年前から始まった、日本の低山の魅力を紹介する番組『にっぽん百低山』(NHK総合)の登山のためだ。低山といいつつ1500m近くの山を登るのは「かなりハード」だ。

 「ただ僕は元々高い山ばかり登っていたので、持久力はある。結構粘り強いんですよ。山ではギブアップがそのまま死に繫がりますので。気がついたら、人生の中でも根を上げるってことはあんまりなかったような気がします」

 取材中、吉田がこうして自身の人生と山とを結びつけて語る場面が何度もあった。酒場をめぐる番組『吉田類の酒場放浪記』(BS-TBS)で見せる姿から、吉田には「お酒の人」というイメージを持っていた。だが実際には「山の人」なのだ、と思う。

 

 

僕は、自然が奇跡的に
美しい列島に生まれたんじゃないか?

 

 20代の吉田は画家としての活動に力を注いだ。東京・国立のほか、パリにもアトリエを借り、ヨーロッパと日本を行き来しながら絵を描き続けた。
 だが30代になり、心境に変化が訪れる。

 「外の世界を見ず、こうして延々とドグマティック(独善的)な世界に入ったままという生き方も、何か違うよなと疑問を持ちました」

 東京の下町に軸足を移し、イラストレーターとして活動を始めた。

 「描いた絵が、すぐ雑誌に出て世に広がっていく。こういう表現の方法があってもいいのかなと。旅慣れていたので、旅をして文章を書く仕事もするようになりました。シルクロードに行って書いたのが、最初のエッセイですね」

 仕事で出会った編集者と釣りに出かけたところ、「めちゃくちゃ釣れた」。

 「高知の山奥で育ったので幼い頃から川遊びをしていて、魚の習性を知っていたんですよ。魚に全く悟られずに歩くこともできた」

 この頃から、「徐々に日本の自然を楽しみ始めた」という。
 特にほれ込んだのが、今でも拠点の1つである、北海道の自然。きっかけは意外な場所でのひとことだった。

 「本を作るために、年に7回くらい香港に行っていた時期があって。そうしたら、現地の観光局の方に北海道に行ったことがあるかと聞かれて、ないと答えたら『北海道のような素晴らしい所に、行ったことがないんですか?』と驚かれたんですよ。『日本で暮らしているのにもったいない!』と」

 そこからしばらくして、突然北海道に行く機会が訪れる。

 「青森の白神山地で釣りをしていたら天気が崩れたので、回復するまで津軽半島を旅することにしたんですが、向こう側に見える北海道がすごく晴れていて。それで香港で言われたことを思い出して渡ったんです。渡ったら……着いた瞬間に、後悔しました。こんな美しいところがあるのに、今まで来たことがなかったのか! と。若い頃に外国ばかりを美しいと思っていたのは愚かだったと思いましたね。僕は自然が奇跡的に美しい列島に生まれたんじゃないか? と。それに気づいたのが、30代後半から40歳前後のこと。僕の分岐点だったと思います」

37歳ごろ。東陽町のアトリエで。

 

 

大きな喪失感を味わい、
山に救いを求めた

 

 日本の自然とあらためて出会った32歳のころには、母を亡くすという「大きな喪失感」も味わった。放浪生活を送っていた吉田は「母が亡くなったことも、しばらく知りませんでした。しんどい時期でしたね」。

 そのしんどさを、どのように乗り越えたのだろう。

 「救いを求めたのが、山だった。とにかく、よくわからないけれど山に入ってしまえ、と。都会で考え込むより、その方がいいと思った。それで南アルプスの白峰三山――北岳、間ノ岳、農鳥岳を目指した。それまでにも登山をしたことがなかったわけではないですが、ある意味、全部を賭けているわけですよね。単独だし、行ったこともないところだし。一応渓流釣りをするつもりで行ってはいたんですが、魚はいないし、滝しかないような所。何年か前の大きな台風で南アルプスの源流は崩れていて。滝の連続で登山道はズタズタで……。遭難してしまいました」

 道に迷い、文字通り「命がけで」山中で2日過ごした。

 「その時経験したことが、僕の山の基本的な知識になりました。だんだん幻覚の世界をたどるようになるのが、自分の中ではちょっとおもしろかったです(笑)。後に思ったことですけどね」

 シュールレアリスムの画家だった吉田らしい発言。
 救いを求めて山に入ったわけだが、何か変化はあったのだろうか。

 「おそらくですが、タフになりました。肉体的にというよりも、精神的にね」

 喪失感そのものはなくならない。だが遭難するほどのハードな経験を経て、その喪失感に耐えられるタフな自分になった──。吉田も「僕はもともと性格がネアカだから、普遍的な話ではないと思うのですが」と言うように誰もが真似できる方法ではないだろう。だが吉田にとっては登山がその後の人生の精神的な支えになっていったのだ。

 17年間共に暮らし、登山のパートナーでもあった愛猫・からしを亡くした時も「やっぱり山に登った」という。

 「からしは、一緒に山に登っていましたしね。ザックの上に乗せてね。旅猫として、山に登った回数はギネス級かもしれない(笑)」

 愛おしそうにからしとの思い出を語った。

からし君を背負っての登山。いつものスタイル。

在りし日の愛猫からし君。この子との出会いが猫との生活の始まりだった。

 

 

『酒場放浪記』が人気の理由は……
よくわからないですねえ

 

 北海道に魅せられた吉田は、月に1度は東京で仕事をし、そしてまた北海道へ戻る、という生活を40代で始めた。

 「北海道で偶然知り合って仲良くなった人から『類さん、ここで畑をやってみたら?』と言われたりもして。北海道に骨をうずめるのもかもしれないと思いました」

 執筆の仕事では、酒や食に関するものが増えていった。特に得意だったのが、「立ち飲み」に関する記事だ。

 「なぜ立ち飲みに詳しかったかというと、ヨーロッパにそういう習慣があるからなんです。立ったまま飲んで食べて帰るっていう、自由なスタンスで食事ができる場所がたくさんあった。それで、東京でもアイリッシュパブのような立ち飲み屋によく行っていたんですよ。そういうお店は経営者とかお客さんが外国人なことが多いので、日本人はあまり行かないし、ライターも記事を書かない。僕は気にせず普通に行っていました。そうやって酒場の記事を書いているうちに『それをテレビでやりませんか?』という話がきたんです」

 それが2003年、54歳の時にスタートした『吉田類の酒場放浪記』(以下『酒場放浪記』)だ。酒場で、にこやかに酒と肴に舌鼓を打ち、時折店主と会話を交わす──この番組で吉田を知った人がほとんどだろう。吉田にとっては初めてのテレビ番組への出演だったが、特に臆することも、期するものもなかった。

 「さっき言ったみたいに、ヨーロッパをあちこち旅していた時に毎日のように立ち飲みをしていたので、『酒場放浪記』を1人でやってたようなものだったんですかね(笑)。下地はできていたのかもしれません」

 番組は、媒体を変えながら続き、もうすぐ20年になる。吉田の姿に多くの人が親しみと、憧れを抱いてきた。その人気の理由を、どう考えているのだろう。

 「あんまりよくわからないですねえ。『酒場放浪記』に出始めて3ヵ月も経っていない頃に、電車の向かいの座席に座っていたおじいちゃんとおばあちゃんが、一生懸命こっちを見ていたんですよ。僕も『こんちは』とか言ってね(笑)。普段と変わらないというか特に気にしないというか……そういうところが受けたんでしょうかね?」

 ちなみに“酒場詩人”という、これ以上ないほど吉田にぴったりの肩書をつけたのは、エッセイ『酒場歳時記』(NHK出版)の担当編集者だという。子どもの頃から俳句を詠み、文学や芸術に親しんで来た吉田にとって、この呼び名はしっくりくるもののようだ。

 「僕の文章には、詩情があると思いませんか?(笑)」

 確かに、吉田の文章は、現実の出来事を描いていても、ふわりとやわらかい空気をまとっている。

 「雑誌で書き始めた時も、隣にどんな記事がくるのかは気にせず、自分が納得できる詩人としての言葉しか載せてはいけない、と思って真剣に書いていました。今でもそのポリシーは変わっていません」

 吉田の話を聞きながら、同行しているモーニングの編集者が「そのお仕事は、どういう経緯で始められたのですか?」と尋ねる場面が何度もあった。吉田がどの世界にもあまりにもスムーズに入っていくからだ。
 イラストの仕事は「個展を見に来た人から依頼が来て、気が付いたらいつのまにかいろいろと仕事をするようになった」。旅に関するエッセイの執筆も「たまたま旅慣れていたからですよね」。テレビも「出たいから出たというようなことでは全くなくて、たまたま頼まれて、引き受けたっていうだけのこと。僕はただお酒を飲んでいただけで……まあ飲める量は、多分人より多いとは思いますが(笑)」。
 いつの間にか、たまたま、気が付いたら。にこにことそう繰り返す。

 「みんな不思議がるんですよ。なんで飄々と生きられるんだって」

 生活していけるかどうか、という不安を感じたりはしなかったのだろうか。

 「そんなことは、あんまり考えなくてもいいんじゃないですか? 今も考えていないですね。社会生活を送るためには、それなりの決まった枠の中に入って生きていかなきゃいけない、という考え方もあるのかもしれませんが、それでは詩人なんかやっていられないと思います(笑)」

 画家時代のヨーロッパでの体験、旅先での出会い、山、酒。すべてがゆるやかにつながり、吉田類が出来上がっていったのだ。

 「僕としては、いつも通りにやってきただけなんですけどね。近頃は、そういう生き方を通したことが、結果的に承認されてきているのかな? とは思いますね。山であんなに孤独な生活を送っていたけれど、その孤独が僕の栄養になっていたのかなと」

40、41歳のころ。山で鍛えられた肉体!

 

 

酒場では、コロナ前から
〝ソーシャルディスタンス〟が大事

 

 会社員でもあるモーニングの編集者がこうたずねる。

 「40歳ぐらいになると、誰かを飲みに連れて行くことも増えると思うんです。そういうお酒の場では、どう振る舞うのがいいと思われますか?」

 確かに酒の場での吉田の振る舞いが生む、あの穏やかな空気がどのようにして生まれるのか知りたい、と思う。

 「やっぱり自分が楽しむことですよ。自分が楽しんだら、人も楽しい。自分が楽しむためには、ある意味人のことにも気を遣わないといけないですからね。酒場では、独特の間合い、距離を保つ必要がある」

 吉田が酒場での経験を書いたエッセイを読むと、そのことがよくわかる。酒場での縁を大事にしているのと同時に、深入りすることにも、されることにも慎重だ。

 「そうです、そうです。盛り上がったから次の店に一緒に行くとか、後を引くようなことはない。40歳ぐらいの方は、今そういう飲み方を覚えると、物事を冷静に見る方法がわかったりして、将来の自分にも関わってくるのではないかと思います」

 だが人との距離を保つのは、なかなか難しいことでもあるように思う。特に酒が入ると、普段よりも距離を詰めてしまう人も多いだろう。

 「血中のアルコール濃度が0.05%だと一番いい状態でコミュニケーションが取れる、と聞いたことがあります。でも、そこでとどまらないですよね、人間は(笑)。だからお酒は両刃の剣ではある。僕も危なっかしいところもあったんでしょうけど、どういうわけかその辺はギリギリのところを歩いてきたんじゃないですかね」

 ヨーロッパで飲み歩いていた時は、それが身を守ることにもつながっていたという。

 「ヨーロッパでは、距離を近づけすぎるなんてことは絶対あり得ないですね。下手したら、身ぐるみ剥がされることになり兼ねない。そういう緊張感は常に持って飲んでいました。そこで自分のスタンスの取り方を覚えたんじゃないですかね。一線を越えてこようとする人がいたら、ポッと逃げます。個人の資質なんですかねえ。こうやるべきだと言っても、そうなるものでもないですし」

 編集者が「最近は、酒のマナーが変わってきているように思います。後輩を誘うのもパワハラのように思われる場合があったりして誘いづらかったりする。しかもコロナ禍で飲む機会自体も減っていて。こうした今の状況をどうお考えですか?」と聞く。

 「酒場では、コロナ前から“ソーシャルディスタンス”が大事なんですよね。先ほど言ったように、酒場は密なようで、距離を保つことが必要なんです。結局は、個人と個人、別個の人格の人同士が酒場にいるわけで。その平等の関係が崩れるのが一番よくない。ソーシャルディスタンスは、その平等な関係性を保つために必要なものだ、という方向に考えたらいいのではないでしょうか。そうしていれば、コロナが終わった時に大人の酒飲みが増えるんじゃないかと思います」

 我々のようなサラリーマンが同じ店で飲んで騒いでいるのを見たらどうしますか? という編集者の問いには「君子危うきに近寄らず、ですね」と笑う。

 「居心地が悪いなと感じたら快適な空間に移動します。これだけたくさんの店を周っていると、見分けがつくようになるんですよ。あ、ここはやばいなとかね。厨房とか店主の雰囲気を見れば、変なお客を入れるかどうか、大体わかります。中には酒癖の悪いお客さんをきちっと断ることができないようなお店もある。自分のお店に合うお客かどうか、考えればわかることなんだけど、まあ人間は感情の動物ですからね。やっぱりある程度修羅場をくぐりぬけていないと、できないのだと思います」 

 吉田自身は、数々の修羅場をくぐり抜けたということだ。

 「40代の頃は、今こんなふうになるとは考えられなかったですね。山の中ではサバイバルするしかないわけですよ。とんでもない状況の中で生きていた。さっき話した遭難だけじゃなくて、30頭くらいの猿の群れに取り囲まれたこともありますし(笑)。まず音がザーッて聞こえてきてね。スコールだと思ったので上着を着ようとしたら、雨の音じゃなくて、猿が木の枝を揺すって、葉音をさせていたんですよ。人間がいるので、警戒したのか、敵視されていたのかもしれません。ピッケルを持って構えていたら、いつの間にかいなくなってね。そういうようなこともありますので、気は抜けないですよ。緊張感を持つのが当たり前の生活をしてきました」

 吉田が今その緊張感をまとっていないのは、あまりにもそれが当たり前のものとして身についているからだろう。今の吉田を見ていると、なんて楽しそうに、幸せそうに生きているのだろう、という素直すぎる感想が浮かぶ。

 「今は旅先でね、会う人がみんな笑顔になるんですよ。それはうれしいし、よかったのかなと思います。ずっと山にいたので、人間と器用にしゃべることができなかったんですが、だからこそストレートに、あんまり遠慮しないでものを言えるのかもしれないですね」

 穏やかに人とつきあいながら、有事の時には、身に着けたものが、パッと顔を出すのだろう。

 「いつでも反応できますし、対処できますね。やっぱり、山と自然に教わったことが、本当に大きかったですね。どんな状況になっても、割と冷静でいられます」

 

 

『こうやって酒を飲むこと。これが平和なんだよ』
何としてでも、そう伝えたい

 

 先ほど話に出たコロナだけでなく、大きな変化の中にある今の社会を、吉田はどんなふうに見ているのだろう。

 「僕が見ているのは、変化というより流れですかね。変化は後からわかるものなので。基本的に人間社会というのは、『流れるものだ』という前提が僕の中にはあるんです。流れていく方向を『まあこんなもんだろうな』と理解しておく、というか特に期待も絶望もせず客観的に見ておかないとだめだと思います。まあ、やっぱりどこかにアウトサイダーのノリがあるんじゃないでしょうか。僕らの世代の、特に文学をやっている人には、ニヒリズムを前提とした考え方がありますしね。ロシアのようにすごい作家がたくさん生まれているところでも戦争が起こって、それを止めることはできなかった。人間は、大きな流れの中でしか生きられない。ただ……自分の考えは流されてはいけない。僕はもちろん徹底した平和主義者です。それを、大きな流れの中で、どう主張するかですよね。僕は『こうやって酒を飲むこと、これが平和なんだよ』という伝え方をできればいいかなと思っていて。何としてでも、それをしたい」

 何としてでも、という言葉が力強い。楽しく酒を飲むという、一見ゆるく見える行いを、強い意志で続けるのだ。

 「東日本大震災の時も、自粛が求められていた時に、僕たちは5月1日に東北支援の大きなイベントをやったんですよ。大酒飲みのイベントなので、今そんなことをするなんてとんでもない! とすごく言われました。でもその席で『僕は酒飲みだから、酒を飲んで応援します』と言って。みんなで東北のお酒を飲んで盛り上がることで支援したかった。経済が回らなかったら意味がないというか、どうにもならないじゃないですか。特に福島県は名酒をたくさん作っていますからね。その時から今もずっと応援を続けていて、僕は今、『ふくしまの酒マイスター』です」

 今、40歳の少し前で、人生に迷っている人に、何か声をかけてあげるとしたら?

 「知り合いが、40歳になった時に『類さん、僕40歳になります。一つの転機だと思うので、アドバイスを色紙に書いてください』と言われて。その時は『汝、悟るなかれ』と書きました。悟るのではなくて、その時々の流れに乗っていけば、そのうちに必ず自分の道が開けてくるよ、と。自分を振り返ってそうだったからですよ。でもそのかわり、目の前にあることには全部正直に、全力で取り組む。流れに乗る、というと逆の意味に聞こえるかもしれませんが、ある意味、積極的に自分の人生に取り組めということでもあるんです。僕も先のことを考えたり、損得を考えたりは一切せず、目の前の山に邁進していった。その覚悟が良かったのかなと思うし、いまだにそれが続いていると思いますね。結果的に今は波風がない人生を……まあない、というわけじゃないですけど(笑)、普通には人生を送れていると思っています」

61歳ごろ。北海道樽前山で乾杯!

 

(了)

 

吉田類Rui Yoshida

 

1949年高知県生まれ。イラストレーター、エッセイスト、俳人。主な出演番組に『吉田類の酒場放浪記』(BS-TBS)、『にっぽん百低山』(NHK総合)、『吉田類 北海道ぶらり街めぐり』(HBC北海道放送)など。著書に『酒場詩人の美学』、『酒場詩人の流儀』(ともに中央公論新社)など多数。

 

↓サクサク読みやすいアプリのDLは↓